あしたって今さッ!! ― 「人妻集団暴行致死事件」 田中登

 「『人妻集団暴行致死事件』の『人妻』とはこの女性に違いない。だから、この女性は集団で暴行され死に至らしめられるのだ」と、枝美子が初めてその不健康な色の顔を覗かせた瞬間に予感できてしまえることはただごとではない。そして、彼女が死んだ2羽の鶏を両手に持って、その羽を剥ぐとき、当然「(秘)色情めす市場」の記憶が甦り、「鶏を持った人間は死ななければならない」というゲームの規則が喚起され、予感はほとんど確信に変わる。
 この映画のひとつの核とは、だから、人妻・枝美子であって、死期が真近に迫った枝美子が、最期をいかに生きるかを、そして、いかに死に至るかを見守ることである。枝美子の夫・泰造が3人の青年を初めて家に招いたとき、台所から「かゆです」と言って鶏粥を提供するときの彼女の顔は、滅多に体験することのできないあの「耐え難さ」―たとえばカネフスキーの「動くな、死ね、甦れ!」で味わうような―を感じさせてくれる。3人の青年が帰った後、夫に「わたし、あの人らこわい。なんか好かん」と打ち明けるそのセリフは胸を詰まらせる。夜中にやって来た3人の青年が家のドアを叩くとき、すぐにそのドアを開けるのではなく、まずカーテンの隙間から訪問者を確認するその彼女の仕草は、リチャード・フライシャー「十番街の殺人」のリチャード・アッテンボローのそれであり、盛大な拍手を送りたかった。
 彼女はほとんど100点満点の映画的人物であるが、さらに重要で感動的なのは、彼女が夫の背中に彼女の痕跡を残していたということだ。夫・泰造が枝美子の死体とともにフロに入り、彼女を抱く彼の背中が映し出されるとき、そこには彼女の爪あとがくっきりと残っている。それは生前、彼女が夫と抱き合うときにつけていた傷跡であり、「かつてあったもの」の痕跡であり、まさにこれこそ「映画」ではないか。その傷跡は、彼女の遺影(ここ数十年写真を撮っていなかったのか、それが幼い頃の白黒写真であるのも素晴らしい)と同じくらい、あるいはそれ以上の強度を持つものだ。

 映画とは枝美子の爪痕であり、衣・食・住だ。「人妻集団暴行致死事件」を豊かにしているものは、衣・食・住であって、映画とは衣・食・住なのだと改めて実感させてくれる。びしょ濡れになった作業着を着替えること、デートに行くためにスーツを着ること、スカートをまくりあげること、洋服やズボンを脱ぐこと・・・。実家で昼に食べるライスカレー、おごってもらう焼き肉、ふるまわれる鶏粥、夏の夕方に庭で飲むビールと枝豆・・・。河川敷にある小さな小屋のような家。鶏小屋があること、入口のドアにはカーテンがかかっていること、台所と畳の居間の戸はすりガラスであること(ばあちゃん家みたいだ!)、そして河川敷のこの家の外に朝方、もやがかかっているのも本当に素晴らしい・・・。
 それだけではない。衣・食・住のために働くということもまた、この映画の実に感動的な要素だ。冒頭、どしゃ降りの雨の中、重い部品やら鉄の棒やらを運ぶ青年のその労働する姿に、早速涙せずにはいられない。3人の青年は、衣・食・住のために、そして青春を謳歌するために、土方でも畑仕事でも、あらゆる労働をする。人妻を殺害してしまった直後で動揺しているその夜中も、河川敷を3人で歩きながら、一人の青年は「とりあえず今日は土方の仕事に行く」と言う。
 「人妻集団暴行致死事件」は3人の青年(と何人かの少女の)青春映画と言ってもいいかもしれない。彼らの「あしたって今さッ!」という瑞々しさ。一人の青年に無理やり犯され、「どうしてこうなの!どうしてなのよ!」と青春や人生を嘆く少女は、カサヴェテスの「アメリカの影」で、「人生ってこんなものだったのね」と初体験を終えた後に涙を流しながら嘆く少女を連想させるくらい、素晴らしく青春している。

電車のこととか、まだまだ語りたいことは山ほどあるが、「人妻集団暴行致死事件」について語りつくすことはとてもできそうにない。

「人妻集団暴行致死事件」は、ユーロスペースで開催中の特集「生きつづけるロマンポルノ」で5月31日(木)にもう一度だけ上映されるようです。ぜひとも見てほしいです。