8月26日 映画は音楽に嫉妬する

「映画は音楽に嫉妬する」とは黒沢清の言葉。

ラストバウスでのゆらゆら帝国ライブはあまりに官能的だった。音が全身に触れ膝蓋腱反射が体の至る所で起きた。
なぜベースをやっている男はもてるのか?という疑問にたいし、「子宮に響かせることができるので」という下衆な回答を返した友人がかつていたが、音に愛撫されながらあながち外れてはいないかもしれぬ、と思った。

音楽は触れることができる。音楽が触れ愛撫している間、映画は指を咥えながらそれを垣間みてマスかくしかない。映画は触れることから疎外されている(?)。
ゆえに映画は触れることの(不)可能性をかくことを最も得意とする、というのは安易か。

映画の至高の瞬間は官能性にある。そしてそれは触れる/触れないにかかわる(「タコ物語」のように)。
『虫眼とアニ眼』で宮崎駿が言っているように、官能性とは、たんに裸を見せることとか、性欲の直接的表現などではない。「濡れ場があるとかないとかは最低のこと」。私が言えたことではないが。

るろうに剣心-追憶編-』は官能性に満ち溢れている。終始呼吸を荒くしてみていた。
女―血―花。性と暴力と、さらには衣・食・住をも、白梅の「香り」を軸に官能化している。青春白メシ映画だ。
香りについて我々は公に口にはできない。香りについては我々はそれを孤独に引き受けなければならない。なにか匂った(臭った)としても黙っていなければならぬ。