「ホーリー・モーターズ」 レオス・カラックス

 白塗りのリムジンが停車するそのたびに、―ただ停車するというそれだけで―ドゥニ・ラヴァンが全く異なる11〜13の物語、登場人物を生きることができてしまう興奮は一体どこから来るのか。
 オスカー氏(ドゥニ・ラヴァン)がある物語や登場人物へと至る過程や根拠が示されることはないし、大元のスタート地点(入口)あるいはゴール地点(出口)となるはずの場も発見できず、疾走するリムジンが停車するというたったその運動だけで彼はスイッチする。だからそこは、「私」とかいうものがどこか遠くに置き去りにされたまま、あるいは殺されて、人間が死んで消えた、閉じられた機械的な環の中で、それでもただ音楽だけは鳴り続けているようなもので、それは視覚を奪われるような体験だ。
 「現実と虚構」や「演じること」、「身体性」など、従来の言説によって従来の映画は十分説得力を持って不自然なく語られていたはずのものが、その言葉たちを今まで通り用いたり、また、過去のなんらかの映画を今まで通り参照したりして、ひとたび「ホーリー・モーターズ」をまとめようとすれば、驚くべきことに、どれもこれもどこか的外れで、胡散臭いものに感じられてしまう。上映後のカラックス×岡田利規×佐々木敦トークショーの際の会場には奇妙な空気―「オレたちがカラックスに聞きたいのはそんなわかりきったことじゃあない」というような―が漂っていた。もっと違う次元でホーリー・モーターズは回転しているのではないかという予感と共に、失語症に陥り、興奮している。