アパートの匂い

 区役所の課長が店で局部を露出したくなるのも頷けるあたたかい一日だった。10時までに渋谷ツタヤに返却しなければいけないビデオがあったので、7時に起きて東横線各駅停車に乗った。朝は少し雨が降っていたので、股にビニール傘をはさんで、ドアのすぐ傍の席に座って気持ちよくしていた。
 菊名ヒョウ柄のスパッツを履いた金の長髪ヤンキーギャルが乗って来て、隣に座った。間もなく寝始めてもたれかかってきたヤンキーギャルは、フロでも香水でもアロマでもなく、散らかったアパートの匂いがした。あのアパート特有の、「アパートの匂い」としか言いようがない匂い。それは、ふつうであれば消したり離れたりしたくなるはずのものなのだろうが、このとき決してそうは思わず、それどころか、しばらく嗅いでいたい、抱きたいとさえ思い、落涙した。それは郷愁とともに、なにか事件を予感させ、最高の一歩手前に僕らをたたずませる興奮を喚起させた。そしてそれがいったいどこから来るのかを考えだしてから、答えに行きつくまで時間はかからなかった。
 小学生の冬休みに、「インコ」のアパートに毎日遊びに行っていた。スマッシュブラザーズとか007のゲームをやるために、毎朝7〜8時という法外な時間にインコのアパートのチャイムを鳴らした。「どう考えても早すぎるし迷惑なはずだ」と罪悪感を抱きつつも、「構わない」と言うインコのその言葉に甘えて―とにかく楽しみだったし―毎朝通った。もちろん、出勤前の若々しいお母さんとはち合わせることもしばしばあって、それでもお母さんは嫌な顔ひとつせずに僕らをリビングに招き入れてくれた。インコがちょうど起きる時間に僕らが訪れることもあって、僕らがゲームをしている傍ら、インコは時々朝食を取っていた。どこで買ってきたのやら、トンカツやジャンボフランク、コロッケ、ハンバーグなどの総菜が混沌と詰めあわされたパックをつまみつつ、卵かけご飯の上に納豆をかけてかき込みながら、「吉野家の特朝はうまい」と語っていた。思い出してみると、卵かけご飯に納豆をかけて食べる文化はインコに学んだのだった。またインコのアパートでは、インコと妹が包丁を持って闘っている傍で、それを無視して僕らは好きなだけスマッシュブラザーズを楽しむことができた。
 散らかったインコのアパートはアパートの匂いがして、つねに事件の予感と興奮に満ちていた。違法越境案内人であるインコのアパートは、最も教育的な場のひとつだった。それはたとえば忌野清志郎にとってのトランジスタラジオのようなものだった。
 東横線各駅停車でヤンキーギャルに肩を貸しながら思ったのは、「この隣のヤンキーギャルのアパート臭いアパートで、二か月、いや一か月でいいから同棲して、最高や破滅の予感と興奮を味わいながら、一日中ゲームしたり、パチンコに行ったり、ドンキホーテに行ったりできたらなんと素敵なことか、なんと素晴らしいことか!」ということだ。
 渋谷ツタヤにビデオを返して、やよい軒納豆朝食を食べてから、神保町シアター鈴木清順の「殺しの烙印」をみて帰った。