顔のない眼 ― 「ドライヴ」 ニコラス・ウィンディング・レフン

 リカちゃんのパパとママを姉の部屋から盗み出すことに成功した少年の欲望は、2人をラジコン・カーに乗せて疾走させ、壁に衝突させ、高所から落下させ、横転させ、どぶに突っ込ませ、ラジコンごと爆破し・・・思い付く限りの刑を執行するだろう。が、それでも、固定されたそのにこやかな表情を些かも変えない2人の、その人(形)生のあまりの残酷さに、心動かされることだろう。―べつに男の運転する車がどぶに突っ込むわけでも、爆破されるわけでもないのだが―先に言ってしまえば―「ドライヴ」とは、これだ。

 スーパーマーケットの駐車場で、男(ライアン・ゴズリング)は何やら発見し、それに向かって歩行し出す。カメラは右にパンしてそれを追い、男がたどり着いた先に、車のエンジンが故障して悩んでいる様子の母子を捉える。その瞬間、3人がエレベーターに同乗し、男と子供が見つめあっているショットに切り替わる。「どうしましたか?」とか「エンジン故障ですか?」とかいったやりとりを一切省き、駐車場のパンのショットからエレベーターの上昇運動への一足とびの切り替わりには眩暈を感じ、「酔い止めを飲んでおくべきだったかな」など冗談を飛ばしながら、「ドライヴ」という名のこの映画に期待されるド派手なスペクタクルに「さあ興奮するぞ」と意気込んでいたが、そういったスペクタクルよりむしろ、男や女の人生に終始思いを馳せることとなった。
 アパートの部屋の前の通路で、壁にもたれかかって足を延ばし座っている彼女(キャリー・マリガン)が、男(ライアン・ゴズリング)を発見して“Hey”と挨拶するワンショットがなぜあれほどまでに感動的なのかといえば、男と女の感情発火装置が既に壊れてしまっているからにほかならない。彼女は座っているというよりもむしろ、そこに“置かれている”。
 この男女2人には、まるでレゴの人形やリカちゃんのパパやママのように、表情がない。表情は変化するが、それはほとんど常に固定されており、生きた表情であるとは言えない点で、表情がない。感情発火装置が既に破壊されてしまっているこの2人がもたらす感動とは、人形の感動だ。それはジョルジュ・フランジュ「顔のない眼」や北野武のいくつものフィルム(文字通り「Dolls」もあった)と共通する感動と言っていいかもしれない。
 ダンスしたり、大声で叫んだりして、感情を爆発させることができずに、ただ無限の円環を生きるだけの人形の生の在り方が、僕らのそれとあまりにも似ているために、人形は感動的だ。人形には終わりなどない。だから死なない。男にとって黒幕を殺害することも、恐らく何の終わりももたらさないし、意味などまるでなかったようだ。何かが解決したという印象は「ドライヴ」にはまったくなく、終わりは再び冒頭に接続されるだけだろう。ドライヴの目的地はない。


「ドライヴ」、上映中です。