鳩が卵産んでる ― 「コンボイ」 サム・ペキンパー

 松浦寿輝が「映画n−1」の川島雄三論の中で「取り違えの喜劇」と「場違いの喜劇」について語っている。「・・・取り違えと場違いが一分の隙なくがっちりと噛みあって或る時間の持続を支えきること。事実、『チャップリンの黄金狂時代』や『キートンの探偵学入門』のいちばんおかしい瞬間に起こっていたのはそうしたことにほかならなかった。しかしそれでもなお、取り違えこそが物語喜劇の王道であったし、今なおありつづけているという事実は残る。場違いを笑いのアウラで輝かせるためにはたぶん才能と呼ぶしかない何ものかが必要であるのに対し、取り違えがもとで人々が右往左往する話の二つや三つなら既存の物語の変奏によって誰でもたやすくでっちあげられるという作り手の側の事情が一方にあり、また見る側においても大衆受けをするのはいまだに取り違えによる笑いの方だという事情があるからだ。」
 「取り違えの喜劇」は純粋に、わかりやすい喜劇であるのに対し、「場違いの喜劇」はいくらか悲劇の段階に属すために、それを喜劇と捉えるに難い暗さや歪みを持っている。ベルトルッチアンゲロプロス、キェシロフスキ・・・ 大澤真幸が「<世界史>の哲学 古代編」で、悲劇はその悲劇性が強すぎると反転して喜劇になる、というようなことを言っていたが、そういうことだろうか。それはまるで、ゲームボーイの「遊戯王デュエルモンスターズ」で、モンスターの攻撃力を魔法カードを何枚も使ってアップさせ続け、攻撃力10000を超えると、反転してしまって攻撃力0になってしまうような悲劇だ。
 しかしごく稀に、「取り違えの喜劇」のような陽気さやテンション、スピードを持ちあわせ、暗さや沈黙を感じさせない「場違いの喜劇」が存在する。たとえば、ジャン・ルノワールももいろクローバー、ドラ山さんのツイート・・・。それこそ、ゆらゆら帝国の「美しい」で、坂本慎太郎がジェラシーを感じ「美しい」と言っていた「オシャレなクソ」であって、悲劇性を一切感じさせないくらい悲劇な喜劇なのかもしれない。
 そして、サム・ペキンパーコンボイ」。たとえば、車が突っ込んで破壊された小屋から鶏がスローモーションで落下するショット。物語とは全く関係のないこのワンショットは「場違いの喜劇」に違いないのだけれど、前後のショットとの繋がりのリズムなどから、「場違いの喜劇」特有の暗さとか沈黙とか一切感じさせず、ハイテンションとハイスピードのなかでそれは生きている。
 そもそも鳩は卵を産むのか、産むとしても恐らく木の上の巣の中で産むはずだから、それを目撃することはできないはずなのだけれど、鳩が卵を産むという荒唐無稽な「場違いの喜劇」を一瞬ほんとうに目撃したようなしなかったような、そんな途轍もなくコペルニクス的な体験をした気分。今回、実はサム・ペキンパーを初めて見たのだが、こんなことができる「場違いの喜劇」の監督を発見したことに、どうしようもなく感動している。

コンボイ」は京橋フィルムセンターで7月27日(金)にもう一度上映されるようです。