「イエローキッド」 真利子哲也

小・中学校の頃、ケンカを見る快楽に何度も酔いしれた。ケンカをやっている本人たちからすればそれは悲劇なのだろうけれど、外側からそれを見ている僕らにとっては、緊迫したリアルな悲劇であると同時に、それは喜劇だった。悲劇と喜劇は紙一重なのだろう。

2月の「NINIFUNI」再公開を記念して、真利子哲也監督の「イエローキッド」がオーディトリウム渋谷で1週間だけ再上映されている。
イエローキッド」を見る体験は、ケンカを見る快楽と似ている。
しばしばクローズアップされるリアルで緊迫したあらゆるモノ―むき出しになった電線、止められた水道、コンビニで買う祖母のオムツと豆電球、そしてそこで払う水道料金表、まな板の上でざく切りされる玉ねぎ、ボケた祖母・・・ そして音もだ。サンドバックを叩く音、扉を叩く音、鉄骨を叩く音・・・―挙げればきりがないが、ほぼすべてのモノが、素晴らしくみごとに絶妙な距離を保ったリアルなモノであって、張りつめた空気を漂わせる。物語の本筋とは関係がないと言っていいその数々のモノたちが、物語に与える緊迫した状況はもちろん悲劇であって、僕らはその息苦しさを感じるのだけれど、同時に、やはりニヤけてしまう。
園子温の映画では突き抜けてしまっている“でんでん”の、突き抜ける寸前の寸止め具合や、いなさそうでギリギリいそうな強面の玉井英棋など、俳優の演技はもちろん、そしてフォルムまでもが絶妙な距離を有している。
クローズアップされる見事なモノ、モノ、モノ・・・。モノたちは、物語に本当らしさを与えると同時に、物語に乗って、ただものではないモノになる。
田村(遠藤要)が、獣のような目つきをして、パーカーのフードをかぶり、夕方の賑わった商店街をゆっくりと歩く姿を長回しで捉えたショットに至るとき、僕らのモノを見つめる快楽は最高潮に達する。それはもう、物語の結末など、どうでもよくなるようなモノだ。
このときの張りつめた空気、モノの強度には、もうニヤけてなどいられない。最初は笑って見ていたケンカが、「ちょっとまずいんじゃないか」を通り、まれに「先生呼んでこい!」に至る。あの瞬間だ。



イエローキッド」はオーディトリウム渋谷で27日(金)まで上映されているので、ぜひとも見てください。