「タナトス」 城定秀夫

孤独な不良少年・藤原陸(徳山秀典)は暴走族抗争の助っ人として、その日暮らしの生活費を稼いでいた。ある日偶然、西田ボクシングジムのアマチュア・ボクサー・棚夫木克己(佐藤祐基)と出会い、陸はケンカを仕掛けるがあっさりと倒されてしまう。その悔しさから陸は西田ボクシングジムに入門し、徐々にその才能を開花していく・・・という「ルーキーズ」的な物語からして、距離を感じてしまう。しかし、「ルーキーズ」が恐らく本気でそれを語り、見せようとしていたのに対し、城定秀夫は「タナトス」を最初から本気で信じ込ませようとはしていない。

胡散臭い字体で書かれた「タナトス」という題字と冒頭の数ショットを見ただけで、これがパロディ(「パロディ」という言葉が正しいのかどうかよく分からないが)であることが判る。
いかにも「悪」である暴走族のリーダーや、陸の「狂気」を表すあからさまな表情。陸の幼少時の記憶の「嗚呼!バラ色の珍生!!」のようなフラッシュバック。陸を倒し去っていく棚夫木のジャージの背中に書かれた「西田ボクシングジム」という文字を見て、陸が「西田ボクシングジム」の存在を知るという典型的すぎる演出。陸に恋焦がれる酒井千尋平愛梨、「20世紀少年」のあの女性)と陸のあまりに偶然すぎる出逢いの数々・・・ワンシーンワンシーンが「典型」を過剰なまでに徹底していて、すべてパロディに、しかも見事に的確なパロディになっている。あまりに僕らの思った通りに事が運ぶので「そりゃないだろ」の連続で、僕らのニヤニヤは止まらない。棚夫木が、脳の障害のためボクシングをやめるように医者に告げられた(ボクシングもののお決まり)ときの、脳のレントゲン写真と棚夫木の悔しそうな顔のクローズアップにさえもニヤニヤしてしまう。
城定秀夫が、俳優たちが、パロディ化によって典型から距離をとっているように、僕らも距離をとって「タナトス」を見ることができる。

しかしだ。人に触れられることさえ嫌う孤独な陸が、ボクシングを始め、周囲の人々との距離を縮めていくのと共に、不思議なことに、僕らと「タナトス」の距離も縮まってくる。そして、ラーメン屋で千尋が陸の腕に触れる(距離がゼロになる!)瞬間、僕らと「タナトス」の距離は限りなくゼロに近づくのだ。
それからというもの、それまで「そりゃないだろ」と思っていたあらゆるものごとが、驚くべきことに、信じられてしまうのだ。
陸がトレーニングで河原を走り、千尋が自転車に乗ってそれに伴走するというあり得ないようなショットが、ただただ嬉しくて仕様がなく、涙が出てしまう。陸が働く引越し屋の社長(梅沢富美男、これもおかしい)が「オレも昔ボクシングやってたんだ」と言い出すこれまたあり得ないような展開が「あり得るかも」と思えてしまう。棚夫木の哀しそうな表情にも、もうニヤニヤすることはできない。
相変わらずボクシングジムの会長はフザけているし、パロディは続いている。しかし、それまで笑えていたことが、ほとんど笑えず、本気で信じてしまえる。

ボクシングがまさに距離のスポーツであるように、「タナトス」は見事な距離の映画だった。「タナトス」との距離をあっさりと縮め、それを本気で信じてしまう自分の単純さに僕らは気付かされる。しかしそれでいいのだと思う。
タナトス」は、自分と「タナトス」の距離の接近を感じさせてくれる見事な映画だ。信じるということは距離を縮めることで、距離を縮めれば見えなくなるのだ。

(最初から「タナトス」を本気で信じ、パロディだと気付かずに見てしまった人々には、退屈以外のなにものでもない映画だったことだろう)

タナトス」は渋谷ユーロスペースで連日21時から上映中です。