「なみのおと」 濱口竜介、酒井耕

きのう、西麻布の「音楽実験室 新世界」で濱口竜介、酒井耕監督「なみのおと」を見た。
東北沿岸部で被災した6組の人々の「対話」を撮ったドキュメンタリーなのだが、被災した街を彼らが歩きながら話すわけでも、その瓦礫となった街が映し出されるわけでもなく、彼らの自宅なり彼らが働く事務所なりで、彼らは椅子に腰を下ろしたまま「対話」を繰り広げ、その「対話」がただひたすら映しだされるだけなのだ。
2時間20分という少々長めの上映時間を、そんなあまりに質素すぎるように思える内容で、果たして持たせることができるのだろうかという当初の心配をよそに、カフェで友人の興味深い話でも聞くように、彼ら6組の「対話」に終始ひきこまれ、あっという間に時間は過ぎて行った。

もちろん「対話」の内容も重要なのだけれど、それ以上に、「対話」が「ある」ことそれ自体が重要なのだということを「なみのおと」は気付かせてくれる。夫婦や姉妹・・・といったペア、そして、友人を失った初老の女性の話を濱口監督が聞き、消防団の男性の話を酒井監督が聞く。必ず単数の語りではなくて、複数での「対話」が行われる。「聞く側」である濱口監督や酒井監督の対話の中での表情や頷きなどの反応も、必ず映しだされるのだ。
頷き、笑い、顔をゆがめ、見つめ、目をそらし・・・「語る人」と「聞く人」を真正面からバストショットで捉え、何度も切り返され、その反応が映しだされるとき、「対話」それ自体が「ある」ことの重要性に気付く。語っている内容の優劣とか、それを語ることに意味があるのかどうかとか、そういうことではなくて、2人が面と向かって、顔というトンネルを通じて「対話」する行為それ自体が「ある」ということがまず重要で、感動的なのだ。
それが「ある」ということがどうしようもなく素晴らしい「なみのおと」を見て、やはり映画は、極めて物質的な装置なのだと再確認する。「あるものはある」のだ。

そして、「人を真正面から捉える」ということについて、いま、小津安二郎青山真治の「東京公園」などを持ち出してここでは語るつもりはないが、その深さに改めて気付かされた次第だ。


「なみのおと」は2月に恵比寿映像祭でも上映されるそうなので、ぜひ見ていただきたいです。