『花子とアン』の吉高由里子

吉高由里子が最も生き生きとするのは作り話をしている瞬間である。吉高由里子王蟲やトリスおじさんと対話している瞬間こそ至福のときだし、『花子とアン』で輝いていたのは兄と高梨臨をくっつけるためにひと芝居打つシーン、つまり『花子とアン』という作り話のなかでさらに作り話をするシーンだった。
『シネマ2』で語られる「偽なるものの力能」。登場人物がみずから作り話をしはじめ、作者もまた作り話を語りだすこと。ジャン・ルーシュ。「私は一個の他者である」と言い得るときこそ至福の瞬間である。
親しい友人とは互いに作り話を語り続けることができる。彼らは「兄弟が5人いる」とか「爺ちゃん婆ちゃんと3人で暮らしている」とか「犬を飼っていたが捨てた」と語るが、その真偽は永遠に宙吊りにされたままである。実際のところは『クロユリ団地』の前田敦子のように一人暮らしかもしれないが、親しい友人について僕らは何一つ知ることはない。その実際の真偽はどうでもいいのであって、それに対して私もまた作り話をすればよい。そのとき私と相手は次から次へと別の存在、別の時間に移行する。その対話は永遠に続くかのようなテニスのラリーのようで、このときこそ最も幸せな時間である。恋人同士が長続きするにはお互いひたすらボケ(記憶喪失と想起を同時にやること)続ければよいかも知れない。
しかしあらゆるすべての存在に成ることができると言うとき、それはもはや死である。回想のたがを外し続けてあらゆる存在や時間に次から次へと移行するとき、行き着くその底にあるのは恐らく死である。『クロユリ団地』で前田敦子は自分が「4人家族である」とボケ続けたが結局ひとり暮らしだったのであり、結果発狂した。死、それは落ちることであり、重力であり、この世のすべてのものは重力からは逃れられないということだ。吉高由里子の良いところは王蟲やトリスおじさんや横道世之介やあらゆる魑魅魍魎と戯れ、次から次へ軽々と越境することができるユーモアを持っているが故に、重力を感じさせるところだ。