僕の母親はサイボーグ ― 「シチリア!」 ストローブ=ユイレ

 映画作家であれば誰でも、その物語や登場人物、背景がいかに本当らしいものであるかを観客に信じ込ませるために、細部の演出やロケーション、小道具ひとつひとつに至るまで全精力を注ぎ込むことだろう。たとえそれがどれほど気狂いじみた内容であっても、その作品の中でのお決まり、規則を観客に受け容れてもらうための努力を怠らないだろう。
 2人の人物が会話をするときには、当然、彼らの人物像や関係性、ロケーション等がいかにリアルなものかを提示するために、あらゆる証拠品がアリバイとして差し出されるものだ。
 しかし、「シチリア!」の、中年の息子と初老の母親の母子が過去の思い出について語り合う場面で、母子の関係性や生活感、その会話の内容等がいかに本当らしいかを示すために、ストローブ=ユイレ夫妻が役者2人に与えたのは、ほとんど「ニシン」一匹だけという無茶振りっぷりだ。「ニシン」という小道具は、母子の生活感のリアリティに肉付けするために用意されたものではなく、むしろ、まずニシンが用意されて、それをオカズにして母と子を演じるよう命令されたようなものではないか。家具も見当たらない無機質な小部屋の机の皿の上におもむろに置かれた「ニシン」は、2人の食卓の会話をスタートさせるために、いやそもそも、2人が母子を演じるために用意された小道具だ。「ムカデ人間2」の主役オーディションで、監督のトム・シックスが役者に与えたお題は、(座っている)パイプ椅子と「セックスをしろ」というものだったらしいが、まさにそれ程の「無茶振り」だろう。
 もちろん、「ニシン」を発端として、ひたすら語られ続ける母子の過去についての会話は信憑性に欠けるし、ほとんど「ニシン」以外に生活感とか関係性を示す証拠品が皆無のこの部屋で、突如2人の「過去」が語られ始めても、そもそも、2人が母子であることさえまったく信じられないのだが、それでも、2人は「覚えてないのかい?」とか「ああ・・・そうだった、そうだった」とかいう具合にお互いいかにも「つじつまを合わせながら」といった風に、母子として会話をし続ける。「セミマラリアを間違えたよね」など、会話の内容も、その場で思い付いたようなもので危うく、「そんな過去など存在するはずない。2人の過去には空白しかない」と断言できそうなくらいの統合失調症的な(特に母親の)語りは、それでも歯止めがかからず延々と続けられる。
 はじめは「嘘つけ」と喜劇的に見られていたその滑稽な2人の役者の会話が、しかし、いつからか、嗚咽することなしには見ていられなくなるだろう。過去の「空白」を止むことなく語り続ける母親の姿を見ていると、いつからか、そもそも、僕らの過去の思い出が「空白」ではないことを証明する証拠品もまた、机の上の「ニシン」(いつの間にか無くなっている!)くらいの貧しいものによって支えられているに過ぎないのでは、という疑いを晴らすことができず、僕らは実存の危機に陥ることになるのだ。そのとき、僕らと同じような強度を持って今を生きるこの母親を肯定したくなり、「僕の彼女はサイボーグ」的な、「たとえ全世界を敵に回しても・・・」といった具合に、母親の語りをひたすら信じてやることを決心し、「うん、うん」と真剣に耳を傾けるのだ。
 渡辺謙主演のアルツハイマーを扱った映画「明日の記憶」もそういった映画だったのかなとふと思ってみたりしたが、ストローブ=ユイレ夫妻の「シチリア!」が、「明日の記憶」、だけでなく、凡百の映画と根本的に異なるのは、普通であれば作家のベクトルはリアリティに向かうはずのところ、ストローブ=ユイレ夫妻の場合、信憑性を得るということをそもそも放棄しているということじゃあないか。その上で、夫妻はある虚構を実際にこの世に存在させてしまおうというセンセーショナルな野心をもって、真に革命的な映画を創ろうとしているのだ。それは例えば、どんなにぶっ飛んだ映画であっても、いいところ「無理数」でしかあり得なかったところを、ストローブ=ユイレ夫妻は「虚数」という概念を発明したに等しい。それは、さらに例えれば、皆に偽物だとばれているのに、それでも、「俺は女優のタ部未華子だ」と本気で信じ込んで、「タ部未華子」のツイッターアカウントをつくり、「タ部未華子」として呟き続けるという、世の中からみれば精神分裂症者のそれだ。


特集「ストローブ=ユイレの軌跡」、アテネ・フランセ文化センターで開催中