ジョルジュ・メリエス「月世界旅行」×相対性理論 (爆音3D映画祭)

 ティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」があれほど感動的なのは、まず、あの親父が親父としての威厳を守り通したからだ。たとえ息子と絶縁しそうになろうと、親父としての威厳を保ち続けるために、親父は一歩も退くことなく、自らが語って来た物語を真実として語り続け、墓場まで持っていこうとしたからだ(そしてそれがほんとうに現実の物語だと判ったときの感動は並々ではない!)。嘘をつくことや、なにかのフリをする行為は、たんに、「照れ隠し」のためなどという甘っちょろいものであってはならず、一部の隙を見せることなく、一度ついた嘘はつき通し、なにかのフリをし続け、墓場まで持って行く覚悟が必要であって、それこそが威厳を守るということなのだ。
 ダイソーのパーティグッズコーナーで買いそろえたトンガリ帽や衣装を着て、模造紙にみんなで水彩絵の具で描いたような背景の、「月世界旅行」の住人の中には、誰一人として、その学芸会的な世界に一部の疑いを見せる者もいない。彼ら彼女らは自らが「月世界旅行」の住人であることを信じ通し、その威厳を守る。
 相対性理論の素晴らしさは、「月世界旅行」から距離をおいて、この映画の伴奏を行うのではなくて、自らも「月世界旅行」の住人となって、ゼロ距離で、住人の傍らで演奏を続け、「月世界旅行」の威厳を保ち、あるいは威厳を高めたことだ。みごと、ポン菓子的な彼らのロケット発射が成功したとき、歓喜する大勢の女性たちと一緒になって、相対性理論は盛大なノイズのファンファーレによって発射の成功を心から祝福していたではないか。探検隊が月面に降り立った後も、ポンキッキーズ和田アキ子による「さあ冒険だ」のような陽気さによってではなく、「ムーンライト銀河」による厳かな鎮魂歌によって、「月世界旅行」の威厳を保ちつづけた。だからこそ、この映画で最も胡散臭い蛙的な月の住人たちとの遭遇において、奇跡が起こるのだ。
 隊長が傘で蛙を殴ると、蛙たちは次々に一瞬にして煙となって消えていってしまうという、荒唐無稽なアクションシーンの美しすぎる洪水。その奇跡的な煙の美しさと言えば、ハワード・ホークス「暗黒街の顔役」で兄妹が立て篭もった部屋に投げ込まれる催涙弾が炸裂したときの白煙に匹敵するほどだ。このあまりに嘘くさい世界で、なにか真実味を帯びた、あまりに美しすぎる煙が炸裂する度に、いちいち笑い泣きせずにはいられない。
 かろうじて、明るくなった劇場で無様な泣き顔を大勢の人々にさらけ出さなくて済んだのは、地球までついてきた最後の一匹の蛙が、隊長に傘で殴られることが二度となかったからだ。
メリエスの「月世界旅行」とは、今まで、単なる映画史上の暗記事項に過ぎないのかと思っていたが、とんでもなかった。ほんとうに良かった。