ぼくは磯に住むタコだよ

サザエも、ホタテも、クラゲもワカメも、イカもみんな大好きだ。皆と仲良くなりたい。皆に触れたい。でも触れられない。
ゆらゆら帝国がまさに「タコ物語」で歌っているように、コミュニケイションの困難さとは「触れたいけど触れられない」というようなことだろう。相手との距離を縮めたい。しかし一気に距離を縮めようとすれば、相手は遠ざかっていくかもしれないし、逆にカウンターで一発KOを食らってしまうかもしれない。

一昨日、オーディトリウム渋谷で濱口竜介監督の「PASSION」と濱口竜介×熊切和嘉トークショーを見て来た。「PASSION」は、見事な距離の映画、コミュニケイションの映画だった。

言葉によって相手との距離は伸び縮みする。厄介なのは、ある一言によってその距離は容易に伸びてしまうのに、縮めようとする際には、決定的な一言などなく、地道に何時間も何日もかけなければならないということだ。僕らは相手との距離を縮めたい。しかし一気に縮めるために、ある一言を投げかければ、それは相手にとって暴力となるかもしれないし、そうなれば自分もズタボロだ。だから言葉によって距離を縮めることは非常に困難で、結局微妙な距離を保ちつづけることになる。
一方で、物理的な距離がゼロに近づけば、意外にあっさりと、精神的な距離もゼロに近づくということがある。スポーツがいい例だ。身体と身体との距離が限りなくゼロに近づき、ときにはゼロになることで、言葉などなくても、相手との精神的な距離を容易に縮めることができる。スポーツだけではない。相手との物理的な距離がゼロになるとき、精神的な距離もゼロに近づくのだ。
人のセックスを笑うな」で永作さんと松ケンが初めて会うシーンで、二人はリトグラフを共同制作する。永作さんが松ケンの手に自分の手を重ね、一緒に版を刷る。そこにはほとんど言葉はない。これにはうっとりとしてしまう。
「PASSION」のキスシーンに恍惚としてしまうのも同じだ。物理的な距離がゼロになることで、言葉など要らず、精神的な距離も一気に縮まってしまうという奇跡のような出来事は本当に素晴らしい。