「アメリカの友人」 ヴィム・ヴェンダース

誰もがみな、カセットテープに録音した自分の声を聴いて、そのあまりの気持ちの悪さに仰天したことがあるだろう。そして「これは僕の声じゃない」と主張する。が、周りの人間は「いや、お前の声だ」と言う。卒業アルバムに写る自分の肖像を見て、愕然としたことがあるだろう。「このキモオタデブメガネが俺のわけがない」と言うが、皆ことごとく「いや、おまえだ。まったくおまえだ」と言う。
僕らは、世界をありのままに見ていないし、聞いていない。ほとんど自分の都合いいように見て、聞いている。「都会のアリス」で、ポラロイドカメラで撮った写真を見て、フィリップ(リュディガー・フォーグラー)は「撮りたいものはいつも撮れない。見たものが写っていない」と言う。写真は現実を冷酷に写し取る。そして1秒24コマの写真である(フィルム)映画もまた然りである。
冷酷に記録された僕らの現実は、平凡で、ときに醜く、汚く、それは主役になり得るようなものではないように思える。「アメリカの友人」でデニス・ホッパーは毎日、自分の声をカセットテープに録音し、ポラロイドカメラで自分の顔を撮る(それは「日記」でもある)が、僕らとしては「デニス・ホッパーなら絵になるかもしれないけれど・・・」と、自分は主役にはなり得ないことを思う。

僕らは試合の中心、主役である「選手」にはなり得ない。一般的に言えば、映画を見に行くことは、試合を見に行くのと同じで、かっこいい選手たちによる、白熱した試合を見に行くことだろう。僕らは観客だ。カメラがとらえるのも、もちろん、選手(と彼らが行っている試合)であって、枠(フレーム)の中には選手しかいない。僕ら観客はつねに枠の外にいる。
古典期の映画(〜1940',50',60')は、選手をとらえるものであった。選手たちの白熱した試合、運動がつねに映され、枠の外にいる僕ら観客に目が向けられることはなかった(小津安二郎などの例外があるが)。古典期の映画はあくまで枠の中に留まり続け、枠の中の世界と観客の世界との間には距離があった。(そのことを批判しているわけではない。古典期ハリウッドの選手たちの運動や試合には本当にうっとりとさせられる)
しかし古典期以後(それは現在にまで続いているのだが)、カメラは僕ら観客に目を向けるようになり、映画は枠の外に飛び出した。イタリアのネオリアリズム、フランスのヌーヴェルヴァーグ・・・。僕ら観客の、そしてこの世界の平凡な、ときに醜く、汚い「現実」=「枠の外」を古典期以後の映画はとらえようとした。ロッセリーニのイタリアやドイツ、ヌーヴェルヴァーグのパリ―実際にそのとき、その場を歩く人々がいて、走る車があり、聞こえる音がある―明らかにエキストラではないと分かる「生々しさ」を持つそれらは、すごく魅力的であり、同時に、カセットテープの自分の声を聞いた時の奇妙な感覚がある。そして、そこに映る登場人物たちは、僕ら観客が日常的にそうするように、ただ歩き、走り、ただものを見て、平凡な会話をし、食べ、服を着て、住み・・・実にリアルな行動をとる。トリュフォーの(僕は特に「家庭」における)、ロメールの(僕は特に「緑の光線」における)・・・これといって意味のない会話や独り言がみごとにリアルで、素晴らしいと思う。そのリアルさは、僕ら観客の日常のリアルさであり、僕らと映画との距離は限りなくゼロに近づく。ときにそこに自分自身を、自分の家族や友人を、自分たちが住む世界を、見るのだ。そして、ときに汚く、醜く見えるそれを直視して、「なぜこうなのか。なぜそうなのか」を思考するのだ。映画は自分や世界を映す「鏡」であり、世界に開かれた「窓」であり、「かつて」を映す「アルバム」であり、「遺影」である。

古典期以後の映画は、「いかに枠の外に出るか」「いかに枠の外を意識させるか」ということが主要なテーマになった。
ジョン・カサヴェテスは俳優に、演技ではなく、本当に殴らせ、ゲロを吐かせる。本当にやっているのだから、僕らは「本当にやっている。リアルだ」と思い、一人の人間である俳優の身体、痛さ、辛さ、感情・・・「現実」=「枠の外」を意識させられる。映し出される場所も、ランドマーク(例えばニューヨークであれば自由の女神エンパイアステートビル・・・)ひとつ見当たらず、それがどこなのか特定できない任意の場所であり、それは僕らにとって枠の中の出来事に留まらず、それはどこでもあり僕らの街でもあり得る。

ヴェンダースも古典期以後の映画作家として、枠に意識的である。それは、「アメリカの友人」の主人公ヨナタンブルーノ・ガンツ)が、絵画の額縁屋であることからも明らかだ。ヴェンダースのロードムーヴィー、乗り物に乗って、ひたすら変化する風景を見つめること、それ自体「観客」のあり方であり、「枠の外」である。そして「アメリカの友人」には、いくつもの固有名―ハンブルク、パリ、ミュンヘン―が出て来るけれども、それがそこであると特定できるようなランドマークは特に見当たらない。ヨナタンハンブルクの家は、カモメの鳴き声や船の汽笛が聞こえ、それが港のすぐそばだということは分かるけれど、「ハンブルク」に精通していない限り、それが「ハンブルク」だと言われなければ分からないだろう。それは任意の場所なのだ。
アメリカの友人」も枠の外を意識させてくれる。しかし興味深いのは、アメリカの古典期ハリウッドの映画作家であって、ヌーヴェルヴァーグ映画作家ヴェンダースが慕う、ニコラス・レイサミュエル・フラーがこの映画に出演していることだ。彼らは枠の中の、「選手」たちの素晴らしい試合、運動を映してきた映画作家であった。そしてアメリカの友人・トム(デニス・ホッパー)も、枠の中で活躍する「選手」ではないだろうか(ニコラス・レイの「理由なき反抗」に出演している)。
アメリカの友人」は、枠の外にいる「観客」、死期が迫っているヨナタンブルーノ・ガンツ―それはヴェンダース自身でもあるかもしれない)を、枠の中にいるアメリカの友人であり「選手」の、ニコラス・レイサミュエル・フラーデニス・ホッパー(・・・)が、枠の中心に立たせてあげる映画ではないだろうか。なるほど、ヨナタンが暗殺を遂行するシーンやマフィアに追われるシーン―白熱した試合、運動!!―は古典期ハリウッドのパロディ(あるいはオマージュ)のようなものに見えなくもない。列車からヨナタンとトムが協力して死体を落とすシーンは、(開かれたドアから見える風景などが)ヒッチコックのそれを思い出させる。マフィアから逃れ、ヨナタンとトムが階段を降りるシーンで、トムがマフィアを殴るとき、そのぎこちないカットのつなぎ方なども、古典期ハリウッドのパロディ(あるいはオマージュ)に見える。人生の最後に、アメリカの友人の協力によって、トムは「選手」になり、「選手」であることをアメリカの友人と共に、子供のように楽しんでいるようだ。
アメリカの友人」のヨナタンも、最後はやはり海にたどり着く。トリュフォー「大人は判ってくれない」北野武HANA-BI」、真利子哲也「NINIFUNI」・・・といった記憶が甦り、それだけで心揺さぶられる。最後はやはり、海にたどり着かなくてはいけないのだ。
最後に、車を運転するヨナタンは妻に「(息子)ダニエルに伝えといてくれ・・・このことを・・・」と言って死んでゆく。
「このこと」・・・「選手になった」ということだろうか。


アメリカの友人」下高井戸シネマで17日まで上映中です。