クリス

例えばの話だが、「ハンター×ハンター」では、蟻編で、旅団のボノレノフが蟻と闘うときに「ギュドンドンド族」の説明に入るところ。「バキ」にも色々あるが、例えば、「現場にいた会社員の○○は後にこう語っている・・・」と、第三者の供述に入っていくところ。そういった、(「物語の本筋」や「中心」を捉えた)「枠」の外へ出ていくような場面が僕は好きだ。「枠」の外へ出ること、「枠」を破壊することは、作品全体に深み、広がり、重み、を与える。
僕らは、ボノレノフの故郷、これまでの人生に思いを馳せ、バキや花山の凄さを第三者の視点から改めて実感するのだ。「所詮獣の戯言。俺の心には響かない」にも、重みが加わる。

アテネ・フランセでのクリス・フジワラ氏によるニコラス・レイについての講義で、僕にとってものすごくタイムリーな、「枠」についての話が聞けた。一言で言えばクリスは「(古典期の映画作家である)ニコラス・レイは、「枠」について意識的であって、「枠」の外へ出ようと、あるいは、「枠」を破壊しようとしていた」ということを語っていた。ひとつ例をあげれば、ニコラス・レイは、会話をしている中心的な2人の人物だけを取るのではなくて、それを聞いている第三者にしばしばカメラを向けており、それが(「バキ」の第三者の場面のように、)全体に深みや広がりをもたらす、ということ。そして、その第三者の目は、会話している2人を捉えるために動き、その目の動きが、さらに深み、広がりをもたらす、ということ。・・・なるほど。
たしかに、処女作「夜の人々」を初めて見たとき、複数の人間が語り合う場面の(クリスが言うところの)「人間のまなざしの交響楽(シンフォニー)」には打ちのめされた覚えがある。