「生きてるものはいないのか」 石井岳龍

 ほとんど無名の、とくに強い印象を与えるわけでもない俳優たちが演じる大学生たちが、彼らのキャンパスで、サークルとか恋とか、彼らの日常トークをしている。その雑音にしか聞こえないトークをひたすら見せつけられ、聞かされるあまりの退屈さに、怒りすら覚え、「死んでくれないのか」と思っていると、見事に死んでくれるのだ。
 しかしこの「死んでくれないのか」という怒りは、いわゆる「リア充爆発しろ」とは大きく異なる。むしろそれは、いわば「リア充爆発しろって言うやつこそ爆発しろ」だ。
 
 (これは廣瀬純さんの「蜂起とともに愛がはじまる」を読んで得た考えで、つまりゴダールの考えなのだが)―映写機から放たれる光を、正面からまっすぐ見つめても、像を結ぶことのないただの光しか見えない。像をリアルに把握するためには、光を遮断するスクリーンが必要なのだ―ということ。
 彼ら大学生の集団内部で交わされる日常的なトークは、内部で完結されてしまっており、僕らがそれをリアルに把握するためのスクリーンが欠けている。彼らは映写機であって、光を放っているわけだけれど、それがスクリーン(外部の別のもの、他者)によって遮断されることがないので、僕らはその像を捉えることができない。
 にも関わらず、映写機から直接僕らに向かって光を放ち続けることは、彼らの自慰行為であって、それを見せつける映像はまさにポルノグラフィだ。大学生の集団に限らず、この映画に登場するいくつかの集団にも言えることだが、その内部で交わされるトークやギャグは、いかにも彼らがそのセンスの良さをアピールしているようで、見苦しい。そのトークやギャグのほとんどは、実際クリシェであって、決して異化されてはいない、しかも、彼らの内部で完結したものであるのに。

 知らないからスクリーンが欠けているのか、スクリーンが欠けているから知らないのか、恐らく同じことなのだろうけれど、とにかく、彼らのほとんどは僕らがその顔を知らない新人俳優・女優であって、スクリーンが欠けている。そして、とくに強い印象も与えない、スクリーンを欠いた彼らの顔は、フレームの中心に、はっきりと見て取れるように捉えられる。そんな状態で、さらに、スクリーンを欠いたドメスティックなトークが繰り広げられるのだから、直接的にそれを見せつけられる僕らが「死んでくれないのか」と思うのも無理はないだろう。
 しかし、ほとんどが無名の新人であるのに対して、一人だけ飛びぬけた、染谷将太という結構な有名俳優が出演しているのだ。
 染谷君は、大学のカフェの店員という結構な脇役を演じている。染谷君が最初登場するカットでは、後方にいる彼にピントはあっておらず、顔が見えない。そして、スクリーンを欠いた退屈な顔々に既に疲れ切っているそんなとき、染谷君の顔がはっきりと捉えられた瞬間、やはり安心するのだ。それは染谷君が、「パンドラの匣」「東京公園」「5windows」「ヒミズ」・・・・といういくつものスクリーンを持っているばかりでなく、カフェの客や少女など、出逢った人々をスクリーンとして自らの光を遮断させるからだろう。

 やはり、人びとは「スクリーンを欠いた順」に死んでゆく。まず、スクリーンを全く欠いた大学生が死んでゆき、そのうちの数人は外部の人間と出逢って少しの間生き延びるが、結局死ぬ。医者、女医とその兄、有名人、放浪者・・・も、互いに出逢い、モノと出逢うが、それらをスクリーンとして自らの光を遮断することができずに、死んでいく。そしてやはり、最後に生き残るのは染谷君一人なのだ。

 「生きてるものはいないのか」とは、世界にスクリーンが欠けていることに対する嘆きだ。それは比喩としてのスクリーンだけではなく、文字どおりの映画館のスクリーンでもある。
 「くそっ!終わりかっ!」と言って地面に倒れこむ女性の後ろで、緑色に茂った木々の葉が一斉に揺れている。それはまさに、スクリーンの、最後になるかもしれない蜂起だ。