「クリムゾン・キモノ」 サミュエル・フラー

ドゥルーズ「シネマ1」の第12章では、ヌーヴェルヴァーグの「パロディ」について語られている。「パロディ」一般についての考察にもなっているので、僕らがももいろクローバーについて考える際にも、この章は重要なヒントを与えてくれる。
新しいイメージを生み出す方法として、「偽なるもののように見せるということ」(パロディ)がある。ヌーヴェルヴァーグ映画作家たちは、自らが慕っているアメリカ(古典期ハリウッド)のB級映画の特徴をパロディ化することによって、新しいイメージを確立しようとしたということが、ひとつ言える・・・・といったようなことが書いてあった(ような気がする)。
古典期ハリウッドのギャング映画、フィルムノワールなどでは、(ハンターハンターのように)手刀で人を気絶させるシーンがときどき見られる。例えば、ゴダールの「勝手にしやがれ」でほんの少し首を小突いただけで気絶してしまう男は、そのパロディだろう。トリュフォーの「ピアニストを撃て」もフィルムノワールのパロディでもあるだろう。シャブロルにも、リヴェットにも、・・・もちろん、「パロディ」がしばしば見られる。

オーディトリウム渋谷でサミュエル・フラーの「クリムゾン・キモノ」(1959)を見た。
サミュエル・フラーは、ヌーヴェルヴァーグ映画作家たちが慕う、アメリカ(古典期ハリウッド)のB級映画作家のひとりである。そのサミュエル・フラーの「クリムゾン・キモノ」は、ある事件が起き、刑事が聞き込みをして、犯人に迫っていく、(女性と恋にも落ちる)といったストーリー、語り口が、古典期ハリウッド・フィルムノワール(?)のそれであるのはごくごく当然のことだ。ニュースペーパーを読みながらコーヒーを飲んだり、恋に落ちた男女が唐突にキスをし、盛大な音楽が流れる、などなど、細かい演出までそれは古典期ハリウッドでしばしば見られるそれだろう。しかし、(それはロサンゼルスなのだが)舞台は日系人街で、登場人物の多くが日本人であることから、それはまるでパロディのように仕上がっている。そして恐らく、サミュエル・フラーもそのことに意識的なのだろう、ということもなんとなく分かる。
例のごとく、事件の関係者に襲われそうになり、刑事はその男を手刀で気絶させようとする。しかし、その日本人の男は巨漢で、柔道家(?)なので、一発の手刀では気絶しない。だから刑事2人がかりで何発も何発も男の首をチョップして、やっと気絶させるのだが、これは明らかにパロディだろう。
終盤、逃げる犯人を刑事が追うシーンでは、古典期ハリウッド的特徴のある盛大でテンポのいい音楽が流れる。しかし、犯人が祭りの盆踊りの集団の間をすり抜けていくとき、その音楽は盆踊りのゆったりとした音楽に置き換わる。そして、その後再び盛大でテンポのいい音楽に置き換わり、また盆踊りの音楽に・・・と見事な音楽の転換が繰り広げられる。これもパロディのひとつと言えるかもしれない。
フィルムノワールを日本と融合させることによるパロディ。「クリムゾン・キモノ」がフィルムノワールのパロディだとしても、しかし、ラストで日本人刑事と白人女性が接吻をし、盛大な曲が流れるときにはやはり、純粋に一本のフィルムノワールとして感動できるものだ。

サミュエル・フラーは、盆踊りの音楽のような「ゆったりとしたもの」だけではなくて、何かもっと別のものを「日本」に見ているのではないかと思う。銃弾に倒れる犯人を取り囲み、見つめる日本人たちの顔や目は、まるで動物というかケモノのように映っている。辺境・日本の「ケモノ的」とでも言うべきものを、フラーは日本に見ているのではないか。「クリムゾン・キモノ」における日本人のケモノのような顔や目は「拾った女」(1953)の冒頭、地下鉄の車内で見せるあの白人女性の、そして「最前線物語」(1980)のリー・マーヴィンの、一度見れば逸らすことができなくなるような、あの鋭い目と似ている。