「極東のマンション」 真利子哲也

何かがおかしいと思う世界は居心地が悪い。革命、とは言わないまでも変化を起こしたい。自分で映画を撮って変化を起こせるだろうか。しかし1人で何ができると言うのか。変化を起こすなど夢のまた夢。結局、流れに流されるだけなのか。なんとかして未来へ繋がることはできないのか。

「極東のマンション」(2003)は真利子哲也自身の(疑似?)ドキュメンタリーだ。彼は、マンションで家族と一緒に暮らしている。朝起きて、ご飯を食べて、いろいろして、ご飯を食べて、寝る。たまにどこかへ出かけたりするが、ほとんど自宅と家族が生活のすべてのようなものだ。
今、彼は映画を撮ろうとしている。しかし何を撮ればいいのか。自宅と家族しか知らない自分に、一体何が撮れると言うのか。

1人で映画は撮れるのか。自宅と何の変哲もない家族だけで映画は成立するのか・・・「極東のマンション」では見事に撮れているし、成立しているのだ。

自分自身のドキュメンタリーというだけで、(Youtubeの「踊ってみた」の動画のように)純粋には見ていられないような気がするが、彼は自分自身に距離を置くことに見事に成功していて、それはフィクションなのではないかと思うくらいだ。
彼自身によるナレーションも、(ゆらゆら帝国の)坂本慎太郎の不気味な声で「北の国から」の純(吉岡秀隆)のナレーションをやっているような奇妙なもので、現実の彼自身との距離を生むことに成功している。
全編通して8ミリフィルムで撮られた映像には、今にも消えてしまいそうな危うさがつきまとう。しかしそれは、失われていくものに対する彼自身の情緒を感じさせるような映像では決してない。お正月の祖父母宅の集まりに彼が5年ぶりに参加するシーンは、一枚一枚の静止画と他愛もない会話で構成され、見事に彼自身の情緒を回避している。
映っているのは全て彼自身や彼の家族なのに、そこにはほとんどナルシシズム的ないやらしさがない。まさに「自分を壊して」いる。

そして彼は、自宅マンションの屋上からバンジージャンプをして、それをカメラに収めることを1人でやってのける。1人でロープを結び、1人でカメラのスイッチを入れ、1人でカメラのスイッチを切る。1人でやれたのだ。

「極東のマンション」のナレーションは不器用な声だし、映像は今にも消えてしまいそうだ。しかしそこには、なんとかして未来へ繋がろうとする力強さがあふれている。最後に両親や祖父母への思いも含めた、彼の未来への宣言が語られるのだが、これは僕らに深く響く宣言であり、同時に紛れもなく現実の彼自身の宣言であって、僕らはフィクションとドキュメンタリーの間に宙吊りにされてしまう。これはとにかく力強く、大切な宣言だからとにかく聞いて来て下さい、と言いたい。ボクは泣いていた。

真利子哲也さんは、この傑作「極東のマンション」で注目され、傑作「イエローキッド」や傑作「NINIFUNI」に見事に繋がることができた。そして「NINIFUNI」では、宮崎あおいの兄さんやももいろクローバーと共に世界に変化をもたらそうとしていた。

「極東のマンション」はオーディトリウム渋谷の「キノ・トライブ2011」という特集で(「マリコ三十騎」と共に)9月23日(金)も上映されるようです。