ジャンキーと友達になる

 これから書こうとしているのが、「親密さ」の平野鈴でも「PASSION」の河井青葉でも、「ダークナイト ライジング」のキャットウーマンアン・ハサウェイ)でもなく、「おおかみこどもの雨と雪」の宮崎あおいでもなく、さらには西武ドームももいろクローバーZについてでさえなく、それが名も無いとあるヤンキーむすめ、いや、ジャンキーむすめについてであると言ったら、怒り狂われる方もおられることだろうが、そんなことはお構いなしに、そのとあるむすめについて語りたい。
 部品工場に派遣され、ヒステリック気味の主婦とか気違いじみた中年男性とか、好き者ひしめく中でもとりわけ異彩を放つむすめに出逢った。そのむすめが「ヤンキー」であるということは、部品工場の労働者から責任者、来賓まで、満場一致で認めるところだろうが、果たして「ヤンキー」といういささか古びた言葉で括ってしまっていいものだろうかという疑問が残る。金色の長髪にサーフTシャツ、がにまた気味に歩き、余計なことはベラベラ喋らないで基本的に黙っている、というようないくつかの特徴から明らかに「ギャル」とは違う誰かであって、極めつけに「煙草はいつから吸っているのか?」という質問に対しての「10才から」という返答にしたがって、言葉を与えるとするなら「ヤンキー」なのだろう。が、メンチを切りながら「なめんじゃねえ」と言うような、いささか古びたイメージの「ヤンキー」という言葉でも括ることができないような何かが、むすめにはあって、それはまさにその眼差し―石ころでも見つめるようにこちらを見つめ返すその眼差しである。
 「ギャル」にしろ「ヤンキー」にしろ誰にしろ、ふつう人と目を合わせたときには何らかの感情が必ず溢れだすはずなのだが、むすめの眼差しには、初対面にもかかわらず、恐れとか恥じらいとか、驚きとか見上げたり見下したり、偽ったりする感情も一切捉える事ができず、ほんとうに、木の年輪でも見るような虚の眼差しで見つめ返してくるのだ。
 これは決してつくろうと思ってつくれる眼差しではない。きゃりーぱみゅぱみゅにしろ乃木坂46にしろ、虚のまなざしを作ろうとして作っているに過ぎないだろう。きゃりーぱみゅぱみゅも乃木坂46も―最近少し気になる人々は―だからももいろクローバーもだろうか―しばしば、いかにして観客の背後にまわるか、ということを念頭に置いていて、観客の正面に立っているように見せながら、実は気付かれないように観客の背後に回ろうとするので、実際、その眼差しはしばしば「自然な」ものではなく、「つくられた」眼差しなのである。きゃりーぱみゅぱみゅの座ったような目や「メガシャキ」のCMで無言でうなづく生駒里奈をはじめとする乃木坂46メンバーたちの冷静な目は、観客の正面に直立することを避けて背後をとるための眼差しなのだ。
 背後の取り合い。その背後の取り方が非常に巧い人々を追い続け、僕自身も少しでも速く静かに、華麗に、背後を取ろうとし続けて来たのである。一見悲劇のように見えるが、実は喜劇なのではないか、背後を取られていたのではないか、と気付く瞬間こそ最もこうふんさせられる瞬間のひとつである。
 が、むすめの眼差しには、一切の作為がない。とても信じられないが、数々の修羅場を潜り抜けてきた齢20のむすめは、もはや、何かを避けて人々の背後にまわることなどせず、まさに人々の真正面に立って全てを受け止め、なお直立して微動だにしないという技を身につけているのだ。「ヤンキー」はしゃがんで見上げながら「ざけんな」と言って見下すが、むすめは現実を真正面から受け止めてまっすぐ見つめ返す。
 「ヤンキー」よりもワンランクもツーランクも上のむすめを、「ジャンキー」と呼ぼう。
 ジャンキーむすめの携帯電話にはビックリマンシールが貼ってある。レッドブルにはまっていると語り、缶のタブを集めている。以前僕はツイッターで「レッドブルの車を追っている」と背後にまわって冗談でつぶやいたが、ジャンキーむすめはほんとうにレッドブルの車を追うのだという。現実に真正面から立ち向かってたたかい続けるジャンキーむすめの愛しさと切なさと心強さに感動されっぱなしで、工場が楽しくて仕様がない。