サスペンス ― 「おとなのけんか」 ロマン・ポランスキー

 目まぐるしく変化する登場人物4人の視線、そして、部屋の至る所に飾られた絵画や記念写真、鏡、窓の外に見える風景(ニューヨーク・ブルックリンが舞台のこの映画はパリで撮られたというから、これは恐らくCG)、外から聞こえて来る車の騒音、携帯電話の向こうから聞こえて来る声・・・は「おとなのけんか」の枠の外を強く意識させる。枠の中、枠の外―ありとあらゆるショットが響きあい、形成されるクリスタルにまず魅了されずにはいられない。
 「黒沢清、21世紀の映画を語る」で、映像と映画の違いとは画面の外(=世界)を意識させるかさせないか、ということだと黒沢清が語っていたが、「おとなのけんか」はまず第一にその「映画」の感動を喚起させてくれる。これだけで十分贅沢な映画だ。

 「おとなのけんか」は序盤、そのタイトルからも、ポランスキーの十八番と言ってもいい「サスペンス」とはまったく無縁のように思われる。強いてこれをジャンルで括れば「コメディ」だろうか。
 しかしジョン・C・ライリーが、スコッチを取りに行くためにゆったりと、ジョン・ウェインのように歩行する様子を、パンで捉えたショットを目にするとき、「これはサスペンスなのではないか」と僕らは思ってしまうことだろう(ジョン・ウェインのゆったりとした歩行をパンやドリーで追えば、それだけで贅沢なサスペンスが仕上がることは「リオ・ブラボー」一本見れば十分に証明され尽くされるだろう)。
 そしてその通り、窓の外の空は暗くなり始め、遠くに見えるビルには明かりが灯り、4人がいる部屋の中も薄暗くなってきている。こうなるともう、鏡や窓が立派なサスペンスの小道具として機能し始め(るように思われ)、そしてスコッチには、かつてのあらゆるサスペンスの記憶を読みとらずにはいられない。殺人も何も起こらないだろうと確信しているはずなのに、花瓶の水にゆらゆら浮かぶ黄色いチューリップの花、そしてバイブレーションで勝手に動き出す携帯電話には、一人前の恐怖を感じさせられる。
 ジョン・C・ライリーのゆったりとした歩行のパンから、「サスペンス」の風穴を切り開く「おとなのけんか」は、映画とはスタイルの問題なのだということを改めて実感させてくれる実に贅沢な映画だ。