是枝裕和『海街diary』

夕方、バルト9是枝裕和海街diary』。
最高の映画とは、その映画が永遠にループ再生される映画館で、座席に座りながらゆっくりミイラになって死んでいきたい映画だろう。綾瀬はるかのお辞儀、あるいは広瀬すずのサッカーの試合を解説も音楽もなく定点カメラで捉えた一試合まるごと・・・永遠にループ再生される映画館でゆっくり死んでいけたらどんなに幸せだろうか。
「家の映画」というものがあるだろう。それは恐らくアパートや新築のマンションではだめだ。乳の大きさ以外にさして共通項を持たない出鱈目といえば出鱈目な4姉妹をつなぎ止め、また4姉妹の不在の人物についての語らいを至福の場所に変えるのは、ほかでもない2階建てのあの家だろう。
画面に一度も現れない不在の人物についての記憶を4姉妹がああでもないこうでもない語り合うとき、我々は圧倒的に置いてきぼりにされる。我々が死んでも映写機は関係なく回り続け、語らいは続くだろう。そしてこのとき、 切断された数々の断片、長澤まさみの足や夏帆の頭部、綾瀬はるかの胸から上や後ろ姿の広瀬すず、また、画面外の人物に向かってお辞儀をし、振り返り、手を振り、祈り、眠り、あるいは喪服姿で4人いっしょに並んでいる、それら断片のひとつひとつを見つめるのはただただ幸せである。