「監督失格」 平野勝之

昨日、東京造形大学でのペドロ・コスタによる特別講義でペドロは、「大人になること」について「大人になるとは、「こんにちは」、「さようなら」が言えるようになることだ」と語っていた。そしてペドロは、フリッツ・ラングの「ムーン・フリート」を引用して、「すべての映画は「さようなら」を言うための修行だ」とも語っていた。

ジャック&ベティで今日やっと「監督失格」を見た。この映画は恐らく、「良かった」とか「つまらなかった」とか、そういった言葉で語られるものではないだろう。「矢野顕子の歌声が気に入らない」とか「画像だけで構成された告別式のシーンがボラギノールのCMに見える」とか、そういった言葉が飛び交うべきではないのだろう。
林由美香が亡くなっているアパートに監督・平野やその弟子、由美香の母の3人が訪れる映像は耐え難い。エレベーターのボタンを押し、上階に上がり、由美香の部屋の鍵を開ける。その一つ一つの仕草、見つめるものが、その時点でとてつもない強度を帯びている。そして、由美香の死が明らかになったとき、泣き叫ぶ母親、電話をかける平野、暗い奥の部屋、部屋を駆け回る犬、・・・全てのものが、とても引き受けきれそうにない強度を持ち、僕らは耐え難さを感じる。
監督失格」は、それ以前の由美香との思い出も含めた、それら全ての「死」に、監督・平野が「さようなら」を言うための修行である。彼にとってそれは、夜の街を自転車で駆け抜けることであり、この映画をつくることであった。そして僕らにとっても、耐え難く目を背けたくなるような全ての「死」を直視することが、「さようなら」を言うための修行になるだろう。

「こんにちは」、「さようなら」。小津安二郎の「お早よう」で、子供たちは、大人たちの「お早よう」という挨拶に何の意味があるのかと言って、お互いに「屁」で挨拶をし、「お早よう」を嘲る。
照れ隠しや気取っているように見られないように、屁で返事をしてしまうときが多々ある。普段は屁で返事をしていてもまったく構わない。しかし、「お早よう」「こんにちは」「さようなら」を言うべきときは必ずあって、そろそろ僕も然るべきときには、屁で返事ばかりしていてはいけないなと思う次第である。(「こんにちは」「さようなら」は、「ムーン・フリート」の主人公が「盗賊」というはみ出し者であることから明らかなように、決して社交辞令的な、ペドロが言うところの「ブルジョワ的な」、挨拶などではない)
「しゃべる、なかし」で、皆さんは「こんにちは」「さようなら」をちゃんと言おうとしておられる。僕も見習わなければいけない。


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