クリシェ

今日やっと「nobody」36号・「サウダーヂ」特集を購入し読み始めたところ、早速、廣瀬純さんの文章「OUTRA VEZ...,MAS!」に感動させられている。
「クソとはクリシェのことであり、クリシェがそっくりそのまま生きられてしまうという事実のことである。」・・・この一文は、僕が「サウダーヂ」を見たときに漠然と思ったこと、そして、現在の状況に対して抱いていることを、見事に表してくれている。そして、「俗物図鑑」の系譜―小津安二郎ジャン・ルノワールエリック・ロメールホン・サンス・・・―にも、「なるほど!」と大きく頷かせられた。

映画はしばしば(パロディなどによって)クリシェとの差異を意図的に創り出し、クリシェを批判する。廣瀬さんは、しかし、「サウダーヂ」はクリシェに対する徹底した批判精神によってではなく、クリシェをそのものとして提示し、「クソそのものとしてある世界を「それでもなお」と呟き続けるその不屈ぶりによって」我々を魅了する、と書いている。
クリシェクリシェクリシェ、・・・(クソ、クソ、クソ、・・・) 毎日がクリシェ(クソ)の繰り返しの生活で、街もクリシェ(クソ)に覆われている。クリシェ(クソ)から逃れることはできない。

先週、フィルメックスで見たタル・ベーラの新作「ニーチェの馬」はまさにそういったクソの反復のフィルムだった。上映後のトークショーで「このクソみたいな世界を神は6日間で創ったわけだが・・・」とタル・ベーラが語るように、「ニーチェの馬」は、ある親子のクソのような、何の変化もないように見える6日間の生活を撮ったものだ。まったく止むことのない強風が吹く荒野の中にぽつんと一軒だけ建っている小さな小屋で、父と娘が二人で暮らしている。朝起きて、働き、飯を食って、寝る、の繰り返し。夕飯は、毎日、茹でたじゃがいも一個ずつで、父は片手でそれを崩して一口、二口だけ食べ、娘はフーフー冷ましながら、ちょっとだけ食べてから、父と自分の皿を洗いにいく。これの繰り返し。6日間、何の変化もないように見えるクソみたいな生活が反復される。しかし、「何の変化もないように見えて、そこには微妙な違いがある」とタル・ベーラが語るように、確かにそこには、男が酒を分けてもらいにやって来たり、ジプシーたちがからかいにやって来たり、井戸の水が使えなくなったり、馬が動かなくなったり、電気が使えなくなったり、というような、昨日と今日の間の差異があるのだ。

廣瀬さんは「サウダーヂ」において「またかよ・・・、それでもなお」の「それでもなお」を生み出す、わずかな希望を見出し得る特権的なワンシーンがあり、それは主人公・精司が妻・恵子に対する愛情を取り戻すシーンだと言う。それまで恵子に指一本触れようとしてこなかった精司が、彼女の体を唐突に抱き寄せてキスをするシーン。反復の中にある、わずかな差異。そこに希望はあって、そういった差異を見極めることが「それでもなお」につながるかもしれない。
差異はクリシェによって隠蔽され、「死」んでいる。映画は、そういった、クリシェによって隠蔽された「死」を露呈させる。
そしてヴェンダースは「パレルモ・シューティング」で、「死」に触れることによって「愛」を取り戻すことを語っていた。子供、老人、犬、鳥、虫、・・・電車に乗るということ、階段を上るということ、街を歩くということ、珈琲を飲むということ・・・純粋な「もの」それ自体や「〇〇するということ」という行為そのもの。それは普段、クリシェによって覆い隠され、意識することがない「死」だ。映画を見つめ、そういった「死」に出逢い、触れることによって、そのものごとに対する「愛」を取り戻すのだ。

(聞き飽きて、もう散々という方も多々おられるだろうが)僕が「ももいろクローバー(Z)」を(N氏、そして「NINIFUNI」に紹介してもらった後、)愛するようになったきっかけは、そこに差異を見出せたことだったではないか。微妙な差異を見極め、見つめることが鍵であるようだ。