「東京上空いらっしゃいませ」 相米慎二

牧瀬里穂の演技はヘタクソと言えばまったくヘタクソだし、鶴瓶はやはり鶴瓶でしかないし、中井貴一も(「今の僕らにとって」にすぎないかもしれないが)ミキプルーンにしか見えない。そして僕個人としては、30を過ぎてフレッシュさを失ってしまった牧瀬里穂しか見たことがなく、そのイメージがまったく強いので、20歳になる前のフレッシュな(17歳という設定の)彼女を見せられても、すんなりとその新鮮さを味わうことはできない。

キャンペーンガールのユウ(牧瀬理穂)は、スポンサーの白雪(鶴瓶)の魔の手(痴漢)から逃れようと、自動車からとび出した瞬間、後続の車にはねられ、死んでしまう。天国に昇った彼女は、白雪とウリ二つの気のいい死神・コオロギ(鶴瓶)をだまして、地上に舞い戻る。ストーリーはとりあえずいいとして、あからさまに「作り物」の、あまりにもちゃっちい「天国」を見せられたときはどうしたものかと考えさせられる。広告代理店のキャンペーン担当・雨宮(中井貴一)が住むアパート(ここにユウが住みつくことになる)の部屋は、下の階とロープの梯子でつながっていたり、奇異なロフトがあったりして、具体性はあっても、それは決して普遍性を得るような具体性ではなく、これはあくまで映画だということが強調されている空間だ。決して(リアルな具体性のある)一般的な部屋ではない。ズラリと並べられたミュージックマガジンロッキングオンが、わずかに見受けられる、普遍性を得られる具体性だろう。

だから、俳優においても、演出においても、最初から僕らは遠く突き放される。これは映画でしかない。「あ、春」の鶏のタマゴが孵るシーンでは見事にそれを成立させていたけれど、この遠く突き放された映画と僕らとの距離を縮めることはさすがに無理ではないか。牧瀬理穂を、僕らはまさに幽霊のように、掴むことができない。一体どう接したらいいのか?

しかしそんな心配をよそに、相米慎二はほんとうに見事に、幽霊の牧瀬理穂を存在させてしまう。
それは、ユウが白雪らに顔を見られるあたりからだ。ユウは、(雨宮以外の)ユウが死んだと知っている人間に顔を見られると、天国に帰らなければいけない。ユウは、白雪に追い詰められる雨宮を救うために、白雪に顔を見られる。そして死神・コオロギが迎えに来る。顔を見られなければ、雨宮とずっと幸せに生きられたであろうユウの「死」が、ここではっきりとする。雨宮は、ユウを連れて死神・コオロギから逃げる。ふたりは車に乗って走り出す。そして映画も走り出すのだ。
相米慎二の「雨」が降り出し、窓ガラスやボンネットを強く打つ。死神・コオロギから逃げきれないことは分かっている。ユウの「死」、雨宮とユウの幸せなひとときの「死」は間近だ。いずれなくなってしまう今、雨宮とユウの唇と唇が触れ合い(距離がゼロになる!)、幽霊のユウはそこにはっきりと存在する。
既にもう、牧瀬理穂の(ももいろクローバーZのリーダーのような)フレッシュさを新鮮なまま味わうことができ、僕はもう牧瀬理穂が大好きになっていたし、「東京上空・・・」の世界と僕らの世界は繋がり、映画と僕らの距離は限りなくゼロに近づく。

自動車に(乗り物に)「死」を乗せて走らせるとき、それはとてつもない加速度を伴って僕らに衝突してくる。(ジョン・フォードの「捜索者」、)ヒッチコックの「めまい」、トリュフォーの「突然炎のごとく」、ヴェンダースの「アメリカの友人」、青山真治の「EUREKA」、真利子哲也の「NINIFUNI」(宮崎将!!)・・・ ゴダールが「男と女と車があれば映画は撮れる」と言っていたらしいが、そこにさらに「死体」を乗せれば、自動車はさらに重く、さらに速く走り、映画も走り出すのでは、とふと思った。

フィルメックスの相米慎二特集は今日までだった。牧瀬理穂という幽霊を存在させてしまうように、最初「映画でしかない」と思っていたことを、現実にそこに生きさせてしまう相米慎二のすさまじさ。号泣してしまうから、スクリーンを直視できなくなる数々のショットが、どのフィルムにも必ずあった。僕は今猛烈に感動している。