3月4日 五十嵐耕平『息を殺して』

 3たび五十嵐耕平『息を殺して』。多くの驚きのうちのひとつは、「亡霊」をあのような形で登場させたこと、登場させることができたこと、登場させてよいのだということ。
 『息を殺して』の亡霊はあまりにあからさまに登場する。あからさま―「説明」というよりむしろひとつの「宣言」としてあるような。それが亡霊だとはっきりと分かるのは生者のセリフや反応などの「説明」によってなのだが、それ以上にまず「これは亡霊である」という(演劇的な)宣言によって、亡霊は亡霊たらしめられるように思う。 
 最初、私はそれが「亡霊」だと気付かなかった。というのも、ゆっくりと一歩一歩踏みしめるようにして歩き、言葉を発さないほかは、生者と異なるところはこれといってなく顔色などもいたって健康で、生者と全く同じ作業着を着ているので、「亡霊的」ではあっても「亡霊」だとは気付かなかった。作業員たちが「亡霊的」であることが、「工場」というものの特性をリアルに表象しているなと思って感動し、彼らは「亡霊的」な、一応は生きている人間なのだなと最初は思った。
 しかし生者のセリフや反応によって彼らは「亡霊的」ではなく、紛れもなく「亡霊」なのだと知らされる。しかしその説明はすんなりとは納得いかない。というのも、『息を殺して』の亡霊は(タニちゃんの父親を除いて)あまりに生者に無関心だからだ。無関心どころか生者の存在にまったく気付いていないようだ。ふつう「亡霊」は亡霊の方からこちら生者に関わってくるものだ。ホラー映画ではたとえこちら生者がその存在に気付かなくとも、あちら亡霊はこちらに気付いており、じわじわと近寄ってくるものだ。亡霊が関わって来てくれなければ「ホラー」にはならない。ふつう亡霊は積極的であるはずだ(『呪怨』母子のしつこさ!)。
 だから逆に生者が積極的に関わろうとしてもなお無関心、無関与を貫く亡霊は、従来の亡霊像からかけ離れており、その亡霊を「これは亡霊である」と言うことは、説明ではなく宣言のようなものに聞こえる。(故に暴力的でもある)。舞台に棒立ちする人間を「これは木だ」と宣言して木たらしめる演劇的な宣言のような。『息を殺して』の亡霊は、生者とは異なる時間を何度も反復し続ける記憶のような亡霊だ。ストローブ=ユイレアンゲロプロスペドロ・コスタの亡霊的人物たちと同様に宣言的、行為遂行的で、革新的な亡霊ではないか。
 亡霊がこちら生者にいっさい気付くことのないホラーは可能か。逆『呪怨』。逆?呪怨の家に毎日訪問し、ひたすら反復される呪怨一家の食卓風景を目撃して勝手に戦慄すること。稲川淳二がすでに(常に?)やっている。あるいは丹生谷貴志が『光の国』かなにかで引用していた小説。男はある島を訪れ、そこで生活する人々が生きた人間ではなく、島のどこかにある3Dプロジェクターによって映し出された反復され続ける映像なのだと気付く。男はプロジェクターを探し出し・・・結局、反復される映像の人々の生活に合わせて自分も演技をしながら島で生活する。