「けいおん!」 山田尚子

けいおん!!」2期の20話。文化祭での最高のライブを終えた後、夕暮れの部室の隅で、放課後ティータイムの皆が座りこんで会話をするシーン。「最高のライブだったね」。彼女たちは、今日のように、これからも続くであろう素晴らしい時間について、楽しそうに語りだす。彼女たちは、この後のお茶の時間について、そしてクリスマスパーティ、お正月について、さらに次の新歓ライブ、次の合宿、そして来年の学園祭について、語り合う。しかし、3年生の唯、澪、律、紬にとって、そして梓にとっても、「次」など、実はもうないのだ。いずれ失われてしまう5人のこの時間。澪が「次は新歓ライブかぁ」と言ったときにはもう、ボロボロ涙がこぼれ落ちていた。このシーン、僕は以前、3回見て3回とも泣いた。今日久しぶりに、YouTubeタイ語の吹き替え版を仕方なく見ていたのだけれど、それでも号泣した。

「いずれ失われてしまうこの時間」。「けいおん!」とは、それだろう。今が最も良い時期であるまさにそのときを彼女たちは今過ごしているが、それはいずれ失われてしまうという、小津安二郎の「麦秋」で東山千栄子が「今がいちばんいいときかも知れないねぇ」言うときのような哀しさ。
映画「けいおん!」で彼女たちは、その「いちばんいいとき」に「さようなら」を言わなければならない。映画「けいおん!」を、ちゃんと「さようなら」を言うための彼女たちの修行だと受け止めて見ていると、本当にしみじみとしてくる。
彼女たちのひとつひとつの些細な行動のすべてが、彼女たちを成長させる。ロンドンから日本にメールを送るときに、(時差から)「未来にメールを送るということなのか」と言う唯。彼女たちのロンドンでの旅は、全く遊んでいるようにしか見えないけれど、その一つ一つの経験が、「さようなら」を言い、その向こう側にある未来へ行くための修行なのだ。
僕は最低4回は泣いた。飛行機の窓から朝日を見て瞳を輝かせる唯。ロンドンの野外ライブで、帰りの飛行機の時間が迫っているにも関わらず「もう一回!」と「ごはんはおがず」を歌い続けるシーン。空港へ向かう帰りのタクシーのシーン。そしてもちろん、「天使にふれたよ」を梓に送るシーン・・・
空港へ向かう帰りのタクシーのシーンで泣いてしまうのは、さすがにどうかと思った。しかし、よく考えてみると、それはすごく妥当なことであった。というのも、そこには見事な「夕方」が描かれているからだ。
先々週だったか、オーディトリウム渋谷でマチュー・アマルリックの「ウィンブルドン・スタジアム(ウィンブルドンの段階)」を見たとき、トリエステの小雨が降る夕方に、とてつもない恐怖を感じ、「夕方」についてずっと考えていた。昼でもない、夜でもない「夕方」。それはすごく曖昧な時間帯であって、そこには「いずれ何かが失われてしまう」という恐怖や哀しみがある。ベルナルド・ベルトルッチの「暗殺の森」の夕方、ミケランジェロ・アントニオーニの「赤い砂漠」の夕方、瀬田なつきの「あとのまつり」の夕方・・・「夕方」は、ときに恐怖を、ときに哀しみを喚起し、それについての映画的記憶がまざまざと甦ってくるではないか。その恐怖と哀しみを例えるなら、「大分むぎ焼酎二階堂」のCMのような恐怖、哀しみだ。
けいおん!」のタクシーのシーンの、ロンドンの夕方(それは5時前だったろう)もまた、哀しいものだった。「もう帰らなければいけない」「いずれ失われてしまう」という哀しさ。旅の終わり、タクシーの窓から過ぎゆくロンドンの街を見つめる彼女たち。ミア・ハンセン=ラブの「あの夏の子供たち」のラスト、車の窓から、去り行くパリを見つめる少女を思い出させる(そこには「ケ・セラ・セラ」が流れていた)。このロンドンの夕方には、号泣して然るべきだろう。
そうだ。20話のあの部室も夕方だったではないか。「けいおん!」とは「夕方」なのだ。
放課後ティータイム」なのだから。

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