「浜辺の女」 ジャン・ルノワール

中学生のとき文集に「私(オレ)には夢がある」「いつかステージに立ちたい」「時の声が聞こえる」などと書いて、多くの生徒に、単純に「頭のおかしい人」として馬鹿にされている同級生がいた。
しかし、単純に「頭のおかしい人」として彼女(女性なのだ!)を馬鹿にする生徒たちは、それに気付くことなく、彼女の内部に組み込まれてしまう。
ジャン・ルノワールの映画は、彼女を思い出させる。

浜辺の女」(1946)のストーリーをあえて語るとすれば、「美しい人妻に一目惚れをしてしまった男が、女を巡って夫と激しい三角関係を繰り広げていく恋愛ドラマ」とでも言えるのだろう。そして何気なく見れば、その通り、単なる恋愛メロドラマとして、この映画は捉えられるだろう。そしてそう捉えた場合、激しいメロドラマはバカバカしく見え、とてもではないがこの映画は面白いとは思えないだろう。

しかし「浜辺の女」のストーリーなど、どうでもいいのだ。そしてジャン・ルノワールも恐らく、ストーリーになど全く興味がない。

浜辺の女」には(そしてジャン・ルノワールのあらゆる映画には)、無意味なものしかない。しかしそれは、とんでもないくらいの意味をもった、無意味なものなのだ。そしてジャン・ルノワールのとんでもない無意味なものは、とんでもないさりげなさを持っているので、とんでもなく意識を高めなければ、見逃してしまう。

一例をあげよう
男は浜辺でまきを拾っている女に出逢う。男「ここで何を?」女「まきを集めているの 悪い?」男「やめた方がいい」女「なぜ?」男「その木は・・・」女「幽霊が怖いならなぜ救命着を?」男「幽霊って何のことです?」女「幽霊が怖いんでしょ」・・・
(この後「幽霊」については一切出てこない)

ここでこのようにして、セリフを引用してみたところで、ルノワールの無意味なもののとんでもなさを伝えることは、全くできていないと感じる。何かを書いてもルノワールの足かせにしかなっていないと思う。「とにかく見て下さい」と言いたい。全てがとんでもない無意味なものなので、「浜辺の女」について何かまとまりのあることは、言えない。

とにかくジャン・ルノワールの映画には、とんでもないくらいの意味をもった無意味なものしかない。それはまさに僕らの日常に存在するものなのだが、僕らはそれをほとんど見逃してしまい、あるいは隠蔽してしまっている。しかしそれこそ、本当のものだと思う。

ゲームの規則」とか「黄金の馬車」とか「フレンチ・カンカン」とか・・・ぜひ見て欲しいです。