フレンチ・カンカン ― 「ミッドナイト・イン・パリ」 ウディ・アレン

 「脱出」、「コンドル」や「リオ・ブラボー」がより一層感動的なのは、同じ人が「赤ちゃん教育」や「モンキー・ビジネス」を撮っているからであり、「走れ!」や「DNA狂詩曲」を素直に賞賛できるのは、同じ人たちが「ココ☆ナツ」や「ミライボウル」を持っているからだ。高度なモラルを体現する人格者として、僕らはハワード・ホークスももいろクローバーを尊敬する。
 「ミッドナイト・イン・パリ」のカンカン踊りは素直に素晴らしい。それはきっとジャン・ルノワールの「フレンチ・カンカン」に違いない(父ルノワールの絵画がさりげなく飾られていたような気もする)。エンドロールで流れる「天国と地獄」もこれほど嬉しいことはそうそうない。「ミッドナイト・イン・パリ」でのこのジャン・ルノワールとの出逢いに僕らがなぜこれほどまでに素直に歓喜できるかと言えば、出逢う前のたしなみをウディ・アレンがしっかりと心得ており、それが非常に倫理的な態度だからではないか。
 主人公と同時的に僕らはヘミングウェイに遭遇し、主人公と驚きを共有する。この場当たり的な遭遇のユーモアは「ウディ・アレン的」と呼べるのだろうが、ヘミングウェイが「脱出」の原作者(脚本はフォークナー)であるという事実を思い出せば、それを「『赤ちゃん教育』的」、または「ホークス的」と呼びたいところだし、そう読んでも差支えないだろう。ヘミングウェイフィッツジェラルドの他にも、主人公は(そして僕らは)、「赤ちゃん教育」的にチーターと遭遇するようにして、ピカソやダリ、ブニュエルマン・レイロートレックマティス、エリオット、コール・ポーター・・・などなど歴史的有名人に次々に遭遇する。そのホークス的なユーモアによる遭遇のスタイルによって、それがまず陳腐なノスタルジーに陥ることを回避できているのではないか。
 この短い文章の中でそれはまったく説得力を持たないだろうが、ある種のユーモアとは、何かに対して真剣に向き合う前の倫理的な態度のことだという気がしてならないし、そう主張し続け、そのことを座右の銘にして生きたいものだ。主人公ギル(オーウェン・ウィルソン)がブニュエルに「皆殺しの天使」のプロットを提案するシーンとか、露店の店員ガブリエル(レア・セドゥー)とのちょっとした会話とか、ギルとアドリアーナ(マリオン・コティヤール)の切り返しショット(マリオン・コティヤールの声がまたいい)とか、あらゆるシーンやショットがより一層感動的であること、そしてなにより「フレンチ・カンカン」のジャン・ルノワールとの感動的な出逢いを無事果たすことができるのは、まず最初にホークス的なユーモアによる倫理的な挨拶が丁寧になされるからだろう。