「アンダーグラウンド」 エミール・クストリッツァ

正直、「アンダーグラウンド」という映画も、エミール・クストリッツァという人も知らなかった。
だから、中学時代の友人ナカガワ君にこの映画を見に行こうと誘われたとき、以前彼と見た「ムカデ人間」(「フィーケン」のくだりがすごく良かった)のような映画なのだろうと思っていた。
しかし、インターネットで調べてみるとエミール・クストリッツァという人は三大映画祭すべてで監督賞を受賞し、「アンダーグラウンド」は1995年のカンヌ映画祭パルム・ドールを獲っているというではないか。なるほど「黒猫・白猫」のDVDは紀伊国屋レーベルのDVDコーナーで見たことがあった。しかし猫のドキュメンタリーか何かかと思って全く気にしていなかった。

「1995年」で「アンダーグラウンド」となれば、地下鉄サリン事件阪神淡路大震災を連想する。だから当然、「生」のイメージが破壊され、地下(アンダーグラウンド)に隠されていた「死」が露わになるような、そんな映画であるハズだと僕は勝手に思っていた。(たとえそれが1995年以前に撮られたものだとしても)

しかしだ。冒頭から最後まで激しく鳴り響いている愉快なブラスバンド演奏のように、「アンダーグラウンド」には「生」のイメージしかない。
ドリフ的というか、「いかにもコメディ」といったようなユーモアが散りばめられていて、人々が「ズッコケる」度に会場全体に笑いが起きる。ベオグラードパルチザンナチスとの戦闘の中で、もちろん人々は死んでゆくのだけれど、その時でさえ人々は「ズッコケる」ように死んでゆき、その死には深刻さのカケラもない。仲間のあり得ないような誤射で死んだり、手榴弾ボンバーマンのように単純なミスで爆発させてしまったり(しかし体はバラバラにならない)・・・。「ホームアローン」の子供と泥棒の戦闘シーンを思い出して頂けると分かりやすいだろう。泥棒が罠に引っ掛かるような、ああいった感じで人々は死んでゆくのだ。文字通りの死さえも「生」のイメージで覆われている。
その「生」のイメージがいつか破壊され、「死」が露わになるのだろうと思い、その瞬間を僕は今か今かと待ち続けていたが、結局その瞬間は訪れなかった。世界大戦が終わったことを知らされずに地下に幽閉され続けたクロとヨヴァンが、地上に出て「国家英雄クロ」のプロパガンダ映画の撮影現場を見る瞬間―真実を見る瞬間。「ここだ!!」と思ったが、結局クロとヨヴァンはそれが映画の撮影だと気付かずに、ナチス兵に扮する俳優やエキストラを血祭りにあげてしまう。その後も彼らは真実には気付かない。そもそも、地下に幽閉されている人々が毎日愉快に踊り狂い、楽しそうにしているのだから、地下(アンダーグラウンド)もまた「生」のイメージに覆い尽くされてしまっていると言えるだろう。
第三章「戦争」のユーゴ内戦には多少「死」が見え隠れしたような気がしないでもない。しかし既に死亡しているマルコの乗った車イスが炎に包まれながら円を描いて動き続けるように、ここでも「生」のイメージが死を覆っている。

アンダーグラウンド」は「国家英雄クロ」のプロパガンダ映画のように、第二次世界大戦やユーゴ内戦の再現(フィクション)でしかない。再現することしかできないのだから、すべてはわざとらしく、「嘘くささ」が強調される。当時の実際の映像も何度か映し出されるが、そこには主人公マルコらが合成で映り込んでいて、映像の詐欺性を露呈させる。

このように解釈してみたものの、ユーゴ内戦についてもろくに知らずに「アンダーグラウンド」を見て、それについて語りつくすことはとてもできない。パルム・ドールを獲ってしまっているということもあって、テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」同様、僕にとっては規模の大きい映画に感じられてしまう。だから「よくわからなかった」としてもヘタなことは言えない。僕より審査委員長のジャンヌ・モローの方がわかっているに決まっている。

ただ、ドリフ的なユーモアによって再現(フィクション)の「嘘くささ」を強調しようとしているのだとしたら、そのユーモアはすごく中途半端だ。会場全体的に笑いが起きても、やはりただ古典的で中途半端な「ズッコケ」には全く笑えない。前年の1994年にタランティーノが「パルプ・フィクション」でパルム・ドールを受賞しているだけあって、特に「アンダーグラウンド」のユーモアの中途半端さが際立つ。タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」(2009)は見ていないが、もっとうまくやっているのではないだろうか。

アンダーグラウンド」はシアターN渋谷で10月21日まで上映中です