「恋の罪」 園子温

言葉には距離がある。言葉をただその言葉として知っているだけでは「意味」がない。経験によって、言葉とのその距離を縮めてゆき、その距離がゼロになるとき、(大学助教授の美津子(冨樫真)が語るように)言葉は「肉体」を持つ。ある本を読んで、そのときはよく分からなくても、その後時間が経ち、何かをしていて「こうゆうことか!」と気付くという経験が誰しもあるだろう。
しかし、たとえば「愛」という抽象的な言葉が「肉体」を持つことはあるのだろうか。どれだけ経験を重ねて、「愛」との距離を縮めているように思えても、実は「愛」に「肉体」などなくて、永遠にその「肉体」を探し続けるだけなのではないか。「城」は見えているのに、そこにたどり着くことはできないのかもしれない。「肉体」を持たない限り、その言葉は虚構であり続ける。「城」にたどり着けないのならば、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と嘆くしかないのだ。

シナリオを俳優の肉体によってただ再現してみたところで、その映画は「肉体」を持つわけではない。映像にも距離があって、それはしばしば、たどり着くことができない「城」であり続ける。幻としての「城」をただ眺めているだけでは、それが僕らの日常や人生に「肉体」を与えてくれることはないだろう。

恋の罪」で園子音は、例のごとく、幻としての「城」を提示する。実際にあった事件を基にした映画だと言うが、それらはことごとく僕らの現実から遠く離れた、たどり着くことがとてもできそうにない「城」だ。「渋谷区円山町」という現実の固有名が出て来るし、実際に「スクランブル交差点」や「シネセゾン渋谷」前、「渋谷109」前などなど、渋谷での実際のロケも多々行われているにかかわらず、登場人物やその行動、セリフ、住む家・・・は、「これは存在しないだろう」というものばかりだ。
いずみ(神楽坂恵)の、(毎日同じ時間に帰宅する)夫のために、スリッパを揃え、紅茶をいれ、フランス製の石鹸を購入しておき・・・といったあまりに潔癖でブルジョワな夫婦生活。昼は大学助教授、夜は娼婦をやっている美津子(冨樫真)の西洋風のすごい豪邸とブルジョワ風の年老いた母親。ソーセージの試食コーナーで働くいずみの配るソーセージは段々と大きくなっていくし、「私も試食しますか?」といったパロディそのものであるセリフ。「売女(ばいた)」という言葉を、90年代に誰が使うだろうか。・・・挙げればきりがないが、ほとんど最初から、登場人物の行動、言動、生活のすべてがパロディや常軌を逸したものになっていて、僕らの現実とは遠くかけ離れている。それはまさに僕らがとてもたどり着けそうにない、果てしない距離がある「城」であって、それは園子温の映画ではいつものことだ。だから園子温は映画を、所詮たどり着くことのできない、幻の「城」として捉えているのだろう。映画はあくまで映画であって、見せ物、エンターテインメントだと。幻、虚構としての「城」は確かに眺めていれば面白いが、それは僕らの日常や人生に「肉体」を与えることはない。映画館を出れば、「ああ、面白かった」で終わる。

しかしだ。今回「恋の罪」を見て、園子温はひょっとすると、その途方もない距離がありそうな「城」を実在させ、「城」にたどり着き、そして僕らにもたどり着かせようとしているのではないか、と思った。それは、いずみや美津子の「城」にたどり着きたいという強い情熱や、美津子が朗読する「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」の詩から伝わってくる。

恋の罪」で、このとても「リアル」ではない登場人物たちの行動、言動、生活という「城」(この「城」は園子温自身が遠くに設置した幻なのだが)を、園子温は、女優たちの演技によって実在させようとしているのではないか。たとえば、いずみが鏡の前で全裸で立ち「おいしいソーセージいかがですか?」とひたすらバイトの練習をするシーンや、いずみと美津子が廃墟で泣きながら激しく口論するシーンでは、神楽坂恵冨樫真という女優、ひとりの人間がそこにいる、ということを感じさせる「体当たりの」演技だ。水野美紀も脱いでいた。それはこれまでの園子温の映画に登場する俳優・女優たちの「体当たりの」演技とさほど変わるわけではなく、「城」はまだ遠い。しかし、「神奈川〇〇」と描かれた漁船が停泊している漁港で、神楽坂恵がしゃがんで放尿をし、2人の小学生がしゃがんでそれを見つめるシーンでは、「城」がもうすぐそこにあったような気がする。神楽坂恵は、恐らく、本当に放尿しているのではないか。きっとそうだ。そうでなければ「意味」がない。この放尿する神楽坂恵と2人の小学生が向かい合い、後ろの漁船や海を捉えたショットには、涙せずにはいられない。(恐らく)「本当にやっている」神楽坂恵を、そして、それまでの登場人物たちとは全く違う(演技とは違う)生々しくリアルな顔をした小学生2人を見たとき、映画の枠(フレーム)内の出来事が、枠外に広がり、それは僕らの現実と繋がる。僕らは、それまでその存在を信じていなかった「城」に限りなく近づき、その存在を信じ始めるのだ。

ラストで、登場人物たちの中ではまだ僕らに近い「リアル」な存在の和子(水野美紀)が、自宅からゴミ収集車を追ってたどり着いたのは、「渋谷区円山町」だった。(たどり着くまで何カットにも割られていたが)何となく感じられる、和子の自宅から「渋谷区円山町」までのその距離は、それほど遠くはないことが分かる。電信柱の標識に書かれた「渋谷区円山町」の文字。「渋谷区円山町」とは、「恋の罪」において、「城」だった。「城」は、そう遠くないところにあるのだ。

今年のフィルメックスで相米慎二の映画を何本も見た。相米慎二も幻の「城」を自ら遠くに設置した。そして一見とてもたどり着けそうにないその「城」を実在させ、ことごとく僕らをそこへたどり着かせてくれた。「東京上空いらっしゃいませ」で、牧瀬里穂という「幽霊」が、ラスト近く「肉体」を持ち、実在させられるとき、とてつもない感動が押し寄せたのをよく覚えている。
園子温は「城」を実在させるだろうか。「ヒミズ」が楽しみだ。