マシンの荒唐無稽さ ― 「大拳銃」「へんげ」 大畑創

 アンゲロプロスカネフスキーにさえ荒唐無稽さを勝手に見出し、カネフスキーがインタビューで「あれは宗教的象徴だ」などと語っていたときには面食らったが、それでも映画とは、まずひとつに荒唐無稽なものであり得るということは断言したい。
 マシン(装置)、とりわけ自作のマシンというものは実に荒唐無稽で、魅力的なものだ。ホークスの「リオ・ロボ」の列車捕獲装置や「ハタリ!」の猿捕獲装置は、それが見事に機能してしまったときに僕らを唖然とさせる(蓮實)。ルノワールの「ゲームの規則」で館の主人が自慢の自動演奏装置を披露するときの顔はたまらない。

 「へんげ」と同時上映される「大拳銃」はみごとに荒唐無稽な映画だった。町工場で働く兄と弟は、ヤクザに拳銃を大量に製造するように依頼されるが、良いように使われてしまう。そこで兄はこっそり「大拳銃」を作り、ヤクザたちに復讐しようとする。
 「大拳銃」とは文字通り大きな拳銃のことだ。そのネーミングからして既に荒唐無稽さが漂っているが、実際に大拳銃を目の当たりにすれば、よりその荒唐無稽さに酔いしれることができるだろう。筒はまあ大きいが、それ以外は普通の拳銃とさして変わらない大きさのそれに、「大拳銃」という名はあまりに大げさだ。
 しかし、その大拳銃が「キュイーン!」という音を立て、弾を発射し、ヤクザの躯に大きな穴を穿ち、みごとに機能してしまったとき、そしてそれを扱う兄のあまりに平凡で冷静な顔を目にしたとき、僕らはさらなる荒唐無稽さに宙吊りにされずにはいられない。

 とは言うものの、威力が大きいということを除けば、普通の拳銃とさして違いのない、いやむしろ無駄が多いように思われる大拳銃を、まるで大量破壊兵器かなにかを持ち運んでいるとでも言いたげに、弟がリュックの中に隠して、人ごみあふれる街の中に消えていくラストカットは、これまた荒唐無稽で素晴らしい。


「へんげ」「大拳銃」2本立て、シアターN渋谷で上映中です。