6月25日 ジャコメッティ展

昼、六本木、国立新美術館ジャコメッティ展。
全裸の異性と直立して向かい合ったことが数度、ある。
この瞬間。この向かい合った瞬間こそが素晴らしい。というのも、乳房の垂れ下がり具合であったり、繁みや腹、特に下腹部の起伏などが、自らの腹やペニス、胸板と同じくらいに、ただひたすらに凡庸であり、凡庸であるという点で似すぎているという事実に驚き、感動するほかないからだ。
幼少の頃、思いもかけず従姉妹の性器を目撃してしまったときに強烈に驚き、子供ながらに狼狽するほかなかったのは、それが自分と「違う」からではなく、「違う」はずだが、それ以上にあまりに「ふつう」で「似ている」からではなかったか。
そこにはどんな過剰さや欠如もなく、ただそこに「ある」。あるものはある。乳房があり、腹がある。ブロンズがある。ものがただ「ある」。
それは、この瞬間に至るまであらゆる方法で思いをめぐらし、思い描いてきた、いかなる過剰さや欠如にも増して美しい。そして、この瞬間、互いに、同じ凡庸な身体に出会うことができたこの瞬間において、かけがえのなさが生まれる。

6月24日 カラオケ映画

昼、原宿vacantで志賀理江子『ブラインドデート』トーク
『螺旋海岸』のテキストにもたしか載っていて、今日もプロジェクターに映し出された、志賀理江子が自らの制作の方法論とし、スタジオにつねに貼っているという地図。中心に「うた」が配置されているこの地図を初めて見たときゾッとしたのは、中学2年のとき、「職業体験」の感想文集にマキノさんという女の子が書いていたものとそっくりだったからだ。それはまず「時の声が聞こえる」やいくつかのマークが書かれていて、たしか「そして私は歌いたい」で締め括られていた。
夜、新宿、中川君に会う。
豚珍館」でトンカツ食う。
武蔵野館でマーレン・アーデ『ありがとう、トニ・エルドマン』見る。小津のようである。それに『ニンゲン合格』の西島秀俊とか、90年代のいくつかの映画とか、最近だと五十嵐耕平の映画にあるようなーー「カラオケ映画」とでも呼びたいーー歌い疲れた深夜のカラオケボックスの異邦感というか空しさみたいなものや表情がふとした瞬間にあるのがすごくいい。最高に面白い。

マイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』

 昼、ピカデリーでマイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』見る。
ジェイミーが卒倒したとき、奥で遊んでいたエル・ファニングが一目散に画面手前の彼のところまで疾走してくる。エル・ファニングは、彼が卒倒したと同時に、ほとんどテレパシーで察知したかのように、ノータイムで走ってくる。しかも彼女の走りはコマ数が減らされ早送りとなり、無音となる。このワンフレームの中の、反射的で、「無媒介的」と呼びたくなるような運動の連鎖は、黎明期の映画のそれのようである。
 エル・ファニングは、すべてに先立って走り出す。ジェイミーが「倒れたこと」は置き去りにされる。彼女はジェイミーが倒れたから走り出したのではなく、それよりも速く、彼女は走り出すことができる。このときエル・ファニングが走るのは、ただ「走るため」であり、彼女の疾走はただ感情となる。
 疑似家族。『ラヴ・ストリームス』や『ニンゲン合格』を思い出す。「他人である」ということがまずあり、その上で「他人のために生きることはできるか」といった問いが賭けられている。だから最初からすごい強度を持っている。最高である。

6月10日

夕方、有楽町、中川君に会う。
築地「文化人」でとうふそば、だし巻き卵食う。
角川シネマでロメール『モンソーのパン屋の女の子』『シュザンヌの生き方』見る。

つきじ 文化人
〒104-0045 東京都中央区築地1-12-16 1F
5,000円(平均)1,500円(ランチ平均)
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5月21日 ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』

昼、代々木上原、「按田餃子」で水餃子定食。
夕方、新宿TOHOシネマでドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』見る。
「私は自転車をこぐ」という状況を人間の言語は並列的にしか記述できない。映画(映像)は、しかし、「私」「自転車」「こぐ」に加え、「湖」「波」「娘」「石」「風」「鳥」「飛ぶ」「死」・・・を一挙に、「同時に爆発的に」(平倉圭ゴダール的方法」)示すことができる。
ヘプタポッドの図形のような言語は、その点で映画的である。そこには過去も未来もなく(あるいは人間の知覚を超越した過去と未来だけがあり)、ただ現在だけがある。決して見尽くすことができない、あらゆる光の飽和状態。時間のクリスタル。

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5月13日

昼、下北沢、中川君に会う。
「みん亭」で麻婆豆腐、チャーハン、ラーメン食う。
日比谷、シャンテでシャマラン『スプリット』見る。
ATJがすごくいい。

スプリット (字幕版)

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  • ジェームズ・マカヴォイ
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4月23日

 昼、神保町、中川君に会う。
「はちまき」で天丼食う。神保町シアター相米慎二『東京上空いらっしゃいませ』見る。
 夜、テアトル新宿瀬田なつき『PARKS』見る。
『5windows』の黄金町がそうであったように、映画館を出てからも映画で見た光景が広がっており、そして彼女を探しに、井の頭公園やサンロードに赴かずにはいられない。映画が立ち上がる瞬間、映画が歌い出す瞬間が次から次へと押し寄せ、あまりに瑞々しい。
 この映画を「奇跡」についての、あるいは「恋」についての映画と呼びたくなるのは、自分自身によって、予め言ったこと、書いたこと、また見たことが、現実化する瞬間がいくつもあるからだ。まずひとつの「宣言」なり「願い」があり、それが現実のものとなること。「ビッグ・フィッシュ」の感動的なラストが何度も押し寄せるような、あまりに幸福な映画だ。

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3月18日 前野健太「百年後」

夜、新宿、中川君に会う。
台湾小料理『香城』でビール、空芯菜炒め、角煮ごはん、パーコー飯、スーラタンメン食う。
ピカデリーでジョン・マスカー、ロン・クレメンツ『モアナと伝説の海』見る。
高円寺の本屋で前野健太のエッセイ「百年後」買って帰る。寝る前にちょっと読む。最高に面白い。すべてが本当かどうかはわからないが、生活の強度がすごい。

百年後

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3月4日 パク・チャヌク『お嬢さん』

 帰り、TOHOシネマ新宿でパク・チャヌク『お嬢さん』。
最高に面白い。鈴木清順ベルトルッチタランティーノを思い出す。ホン・サンス『今は正しくあのときは間違い』のキム・ミニが主演なので、「同じことを2回繰り返す」ことのホン・サンスとの違いについて考えずにいられない。同じ回に成海璃子も見に来ていた。
 新しくできた歌舞伎町のツタヤに寄って帰る。雑居感、異邦感がすごい。かつての新宿ツタヤにあったビデオの在庫がちゃんと受け継がれているのかどうかといった疑問はとりあえず置いといて、レンタルビデオ屋はやっぱりこうでなければならない。
 無責任なエレベーター。冬から春への変わり目ということもあって、一層不安になる。まだあまり知られていないせいか、人も少ないし、僕が中学生か高校生くらいのときの曲が(恐らくかなり意図的に選ばれて)かかっている--たとえば手嶌葵ゲド戦記の主題歌とかミスターチルドレンの旅立ちの歌とか。さらに、8階や9階なので、窓から見える歌舞伎町や新宿がだいぶ下にあって、喧騒がミュートになる--丹生谷貴志吉田健一についての文章で、ちょうど飛行機の中の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」と書いたような。外はものすごい轟音と速度であるはずなのに中は恐ろしく静かであること、のような不安。
 東京である。無責任、雑居、名前も知らない異性とまぐわい交わること、プラスチックとセックスをしているようであること、酒に酔い、ビルの隙間に突っ伏すこと、嘔吐、複数の者に殴り、蹴られ、棄てられること、もうあの頃には戻れないこと・・・ここにはどこか90年代のような異邦感がある。レンタルビデオ屋はこうでなくちゃいけない。

2月5日 肉屋、ゴールデンレトリーバー

 昼、ユーロスペースキン・フー『侠女』見る。
 夜、中野のシマチューホームで、花か魚か迷った挙げ句、水槽と金魚3匹買う。やはり同じ部屋や同じ家に、同居人の生を押し退けて生きようとしてきたり、同居人がいなければ生きていくことができない存在がいることは、つまり何らかの他者がいることは、とても重要なことに思う。かつてくわがた虫やこがね虫、カマキリ、かにやかめやゴールデン・レトリーバーを飼っていた時期は、人生でもっとも刺激的で幸福な時期であった。つねにそれらは、ふとんに入って電気を消し寝静まろうというときにも、「いる」という感覚を与え、生を主張してきた。彼らとともに過ごすことは、その都度奇跡のようなものだった。
 今朝、目を覚ましたときにふと思い出していた。家族旅行から帰ってきたら、庭にゴールデン・レトリーバーがいないので家族4人で探した。どうやら雷におびえて塀を越え脱走したらしい。ゴールデンは逃げたところを捕らえられ、近所の肉屋で飼われていた。

侠女(字幕版)

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