マイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』

 昼、ピカデリーでマイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』見る。
ジェイミーが卒倒したとき、奥で遊んでいたエル・ファニングが一目散に画面手前の彼のところまで疾走してくる。エル・ファニングは、彼が卒倒したと同時に、ほとんどテレパシーで察知したかのように、ノータイムで走ってくる。しかも彼女の走りはコマ数が減らされ早送りとなり、無音となる。このワンフレームの中の、反射的で、「無媒介的」と呼びたくなるような運動の連鎖は、黎明期の映画のそれのようである。
 エル・ファニングは、すべてに先立って走り出す。ジェイミーが「倒れたこと」は置き去りにされる。彼女はジェイミーが倒れたから走り出したのではなく、それよりも速く、彼女は走り出すことができる。このときエル・ファニングが走るのは、ただ「走るため」であり、彼女の疾走はただ感情となる。
 疑似家族。『ラヴ・ストリームス』や『ニンゲン合格』を思い出す。「他人である」ということがまずあり、その上で「他人のために生きることはできるか」といった問いが賭けられている。だから最初からすごい強度を持っている。最高である。