ティム・バートン『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』

夜、ピカデリーでティム・バートンミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』見る。
 「夢の中で一輪の花を受け取り、目覚めたとき手の中のその花に気付いたとしたら、何と言ったらよいか」という『映画史』のラスト、ゴダールの言葉を思い出す。
 『ビッグ・フィッシュ』でわけがわからないほどに嗚咽してしまうのは、そこにあらゆる映画的瞬間があるというだけでなく、『ビッグ・フィッシュ』が映画についての映画、映画を見るということについての映画だからだ。夢や虚構が現実のものになるという、映画を見るということについての最も偉大な経験を、そこに見出だすからだ。
 『ミス・ペレグリンーー』の冒頭数分で、いや、今朝の王様のブランチを見て、これが『ビッグ・フィッシュ』をなぞるということが判り、傑作であることを確信する。つまり、ハタから見れば気違いじみていたり、子供じみたホラ話ばかり話していて相手にされない親父であったり祖父がおり、しかしやがて、息子や孫はその虚構が現実化するのを目の当たりにするというもの。『ミス・ペレグリンーー』は『ビッグ・フィッシュ』同様、映画についての映画であって、主人公のジェイクは、僕らがまさに映画を見るようにループする1943年の世界を見、ミス・ペレグリンやエマ、こどもたち(ロージー『緑色の髪の少年』みたいだ)に出逢うのであって、その世界ではすべてが「映画」として輝き出す。
 『ミス・ペレグリンーー』のあらゆる映画的瞬間は、だから、より一層映画的になる。酒場、駆け抜ける馬車、飛行機・・・ 彼が1943年の世界に行って間もなくもうこれはだめである。涙腺が崩壊する。
 エマはきっと最も映画的な登場人物だろう。というのも、彼女は「重力を逃れる」人物だからだ。彼女が木の上からゆっくりと下降し、海底へと落下する瞬間(重力を逃れつつも、落ちる!)は壮絶に複雑に映画的で、最高に幸福である。いったいこれまでに「落ちる」ことがこんなふうに撮られたことがあったろうか?
 これがエマとの恋愛の物語であることがまた重要だ。ジェイクはエマに再び会うために軍隊に入る。『ビッグ・フィッシュ』の壮絶な恋愛を思い出す。一目惚れした彼女の情報を、サーカスの座長が1ヶ月ごとに1つ教えてくれるというので、ユアン・マクレガーはサーカスに入って無給で働く。