12月11日

佐々木中「夜戦と永遠」(上)を読んでいる。

お早よう。「すべての映画は『さようなら』を言うための修行だ」、というのはペドロ・コスタの言葉である。

p254.葬礼とは、単に死者の死を「飲み込めない」周囲の人々の慰めのためだけにあるのではない。それは死を死なしめるためにあるのだ。そう、誰のものでもない誰かが死んだ、その暴露された非人称の死を、彼女に、彼に、送り返してやること。おまえは死んだ、と言うこと。

(なるほど「リング」や「呪怨」や「仄暗い水の底から」や「着信アリ」で死体を見つけてやることがなにか決定的な解決策になるかのように語られるのは・・・)

父ありき。父親の不確かさ。父親の死体はいつも表情がひきつっている。何か選び切れないように。「これでよかったのか?」と。一方、母親はいつも眠るように死んでいる。

p350.多くの場合、女性は娘から母親になれる。それだけの「体験」が身体的なものとしてそこにあるのだから。しかし、こうしたものを通過せず病院の廊下をうろうろするばかりのこの「息子」は、自分が「父親」になったということがうまく飲み込めない。彼は、息子としての安穏たる地位から、自らを分離することが俄には出来ない。・・・