8月24日 河瀬直美『2つ目の窓』

新宿、シネマートでイエジー・スコリモフスキ『ムーンライティング』。最高におもしろかった。
夜、中川君に会う。西口の回転寿司屋「元祖寿司」行く。
テアトルで河瀬直美『2つ目の窓』。
 普通ならニヤリとして賞賛するような出鱈目さというかわけのわからなさとは異質のわけのわからなさが『2つ目の窓』にはあって、そのわけのわからなさが終始不思議で怖ろしかった。というのも、ああいったわけのわからなさを語る人間が、あの被写体との距離を選び取るはずがない、と思っていたからだ。女の子が海から顔を出しておじいさんと会話するシーンにしろ、台風の中男の子が母親を探しにいくシーンにしろ、徹底的にロングショットなりミドルショットを禁じて、つねに顔しか撮らないことが、そこに必然性の絶対的確信があるかのようで不思議で怖ろしくてならない。ある人間が何かを見る→主観の風景・物ショットというつながりがことごとく微妙につながっていないのも不思議だ。
 とりわけわけがわからないのは、女の子の母親役の松田美由紀がなぜか死にかけているということだ。いや、ヒロインの母親が病気で死にかけている、というのはまあわかるが、母親役の松田美由紀が死にかけている、というのはどうもわけがわからない。「お母さん死ぬの?」と尋ねる女の子に対し、父親役の杉本哲太「医者は死ぬと言っている」。
 なぜ松田美由紀は死にかけているのか?河瀬直美の被写体との近さはその問いに対して「松田美由紀は死なねばならない」という絶対的確信を持っているようで怖ろしい。すごいのは松田美由紀が島の人や家族に看取られて死んでいくシーンで、杉本哲太の軽さや島の素人の人たちの唄や吉永淳の眼差しなど、各々が位置(しようと)する層の違いがいっそう松田美由紀の荒唐無稽な死を引き立てていて、「『奇跡』・・・」あるいは「『こわれゆく女』・・・」など呟きたくなる。