「パレルモ・シューティング」 ヴィム・ヴェンダース

 写真家の主人公フィン(カンピーノ)はハチュウ類顔で、容貌は決してカッコイイとは言えない。彼から地位や名誉(つまり「イメージ」)を奪ってしまえば、あんなに自信をもってふるまうことはできないだろう。ただのハチュウ類になってしまえば、気軽に女性に話しかけることもできないはずだ。
 イメージは、なにか「ほんとうのもの」を隠蔽している。人々はイメージを疑うことなく、それを「現実」であるかのようにふるまう。しかし、なにか本当に「ほんとうのもの」に出逢った瞬間、これこそ「現実」だということに気付かされる。

 フィンはアート写真とモード写真を撮る写真家だが、モード写真の方が「イカれた自由を体験できるから」好きだと言う。モード写真は、デジタル加工によって現実を自由に創り変えることができる。まさにイメージ通りに。そして、フィンが実際に現実を見るその見方もイメージそのものだ。デジタル加工されたように、現実の街並みは歪み、そこにあるはずのないものがフィンには見える。また、フィンは常にイヤホンで耳を塞ぎ、そこで実際に聞こえる音を聞こうとしないので、視覚だけでなく聴覚もイメージ化していると言える。フィンはイメージの中で生きている。
 そんなフィンは母親が死んだ日のことを「よく覚えていない」、と言う。

 複製され、自由に作り替えられる「イメージ」によって、隠蔽された何か「ほんとうのもの」がある。それは何か。「死」だ。
 「死」とは、イメージに毒されていない「わけのわからないもの」である。逆にいえば、「わけのわからないもの」はわけがわからないから、イメージによって隠され、死ぬのだろう。たとえばそれは、文字通りの死であったり、フィンのハチュウ類顔だ。

 「死」を隠す「イメージ」は、どれだけでも複製され作り替えられる。だからフィンは、明日も明後日も一年後、十年後もずっと生き続け、いつでも「生」(=「イメージ」)を体験できると思っている。最期などないと思っている。母親が死んだ日のことを「よく覚えていない」のは、そのためだ。しかし、フィンにも迷いが出始める。
 
 フィンはパレルモで「死」を写真に収めようとする。しかしもちろん、イメージの中で生きるフィンに「死」をとらえることはできない。イメージに毒されていない「羊」や「トリ」やその他を撮ろうとするが、もちろん、逃げられる。
 同じく、フィンがパレルモで出逢ったフラヴィア(彼女は美術館で「死の勝利」という絵の修復を行う仕事をしている)も、恐らく世にあふれたイメージに(ある程度)毒されている。しかし、彼女が十数年ぶりに今は亡き祖母の家を訪れたとき、彼女は自分でもわけもわからずボロボロと涙を流す。それは、まさに彼女が「ほんとうのもの」、つまり「死」に触れたからだろう。「今はもうない」ということに、気付いたのだ。
 フィンもやがて「死」に触れることができる。フィンは死神のフランク(デニス・ホッパー)と向かい合う。
フィンは「死」を受け入れることを決意し、フランクと抱き合う。自分にできることは何か?それは「死」をとらえることだ。そして、フィルムの入ったアナログの「古き良き時代のカメラ」でフランク(=「死」)を撮る。シャッターが降り、フラッシュが光った瞬間、フランクは、フィンがその死を忘れていた彼の母親へと変わる。
 
「いつも最期だと思うこと」
 

 
 ヴィム・ヴェンダースは「東京画」(1985)でこんなことを言っていた。
 「人はだれでも、現実を自分なりに知覚する。他者を、愛する人々を見る。身の回りの事物を、街や風景を、そこに生きる人々を、他人の死を見る。死すべき人間、いつか壊れる物、見て生きる。愛、孤独、幸福、悲しみ、恐れを生きる。人生を見る。見るのは自分だけだ。なのに、自分の経験と映画でみる映像とが、こっけいなまでにずれる事を、だれでも知っている。このずれに慣れきって、映画と人生が違うことがもう当たり前なので、突然スクリーンに、何か本当のもの、何か現実のものを見ると、息をのみ、身震いしてしまう。画面を横切って飛ぶ1羽の鳥、一瞬影を落とす雲、画面の隅にいる子供の何気ないしぐさ・・・」

ヴェンダースの「死」をとらえようとする姿勢は、20年以上経った今も変わっていないようだ。それがすごく嬉しい。
しかし、そんなヴェンダースが最新作は3Dで撮ったというのだから、すごく興味深い。


 「パレルモ・シューティング」は吉祥寺バウスシアターで爆音上映でやっているのでぜひ見てほしいです。