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 ユーロスペースの「CALF夏の短編祭」で二度目の「NINIFUNI」を見た。二度目もすごくよかった。
 
 帰りの東横線で隣に会社員が二人いた。1人は50歳くらいの上司で、もう一人は30くらいの部下。部下はひたすら社交辞令的なお話を上司に投げかけていて、上司は「うん」とか「なるほどね」など言ってひたすら相槌を打っていた。怖かった。部下が菊名で降りた。上司はすぐにカバンの中から週刊少年サンデー週刊少年マガジンを取り出して読み始めた。僕は感動して泣きそうになった。
 
 複製され、世の中に広まったイメージによって何かが隠されているような気がする。そのイメージを現実だと信じて疑わない人々がいる一方で、それを信じることができず、イメージによって隠された何かこそ現実だと思っている人々もいる。後者は、ある種のイメージが冗談にしか見えず、そのイメージを信じているフリをするのが苦痛で仕様がないので、それを用いるなら、できればパロディとしてそれを用いたいと願う。

 彼らがある種のイメージを信じれないのは、そのスタイルが良いと思わないからだろう。彼らもスタイルの良いと思うイメージは信じる。スタイルが良くないイメージを批評し、より優れたスタイルを持ったイメージを確立するために彼らはそれをパロディ化する(ジャン=リュック・ゴダールももいろクローバー・・・「革命」だ!)。
 また彼らはイメージによって隠された何かを信じ、それこそ現実だと思い、その生々しいもの、表象されていないものをとらえようとする(ヌーヴェル・ヴァーグももいろクローバー・・・)。

 優れた映画の中には、イメージに毒されていない現実を、何かほんとうのものを見ることができる。今日見た「NINIFUNI」には、それを見ることができた。
 (「イメージによって何かが隠されている」という発想は、松浦寿輝さんの「平面論」という本から得たもので、彼はその隠されている何かを「死」だと言っていた。面白いのでぜひ読んでほしい)

 
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