7月15日 省略される時間 森井勇佑『こちらあみ子』

新宿武蔵野館で森井勇佑『こちらあみ子』。

前半、小学生時代は、『お引越し』の田畑智子のあの捉えどころのない「おめでとうございます!」をただひたすら見ているようだ。

あくまであみ子(大沢一菜)が主導権を握り、あみ子のフィクションによって形作られる映画。だからこれは、これまで見たことのない凄まじい映画になる。

そして、小学生時代から、中学生時代へ。

中学生のあみ子もまた、明らかにサイズのでかい制服を着た大沢一菜自身が演じる。笠智衆のように。

ここに、省略される時間、フレーム外の時間の残酷があり、この映画の重力となる。さらにそれが現実の中学校=暴力や実人生の時間の残酷にあまりに似ているので、戦慄するほかない。ものごとは気づいたときには絶望的に変化してしまっている。かつて親しかった人びと・周囲にいた人びとは、明確な別れの挨拶・場や決着を得ることなどなく、いつの間にかいなくなっている。その人びとのことを、時々思い出したり思い出せなかったりするだけである。

祖母の家での父親(井浦新)とあみ子が向かい合う素晴らしいカット。ヴェンダースが『東京画』で語る、「突然スクリーンに、何か本当のもの、何か現実のものを見ると、息をのみ、身震いしてしまう」という言葉のように、フレームの内と外が通底する。