吉高由里子の深淵 - 「横道世之介」 沖田修一

 トリスハイボールおじさんとの会話(2012年10月26日)や王蟲とのあれこれ(2012年1月26日)などのツイッターでの天才的なつぶやきの数々、そしてバラエティ番組でしばしば見せてくれるみごとな逸脱を見ていると、現実の吉高由里子のほうが、ドラマや映画で役を与えられた吉高由里子に比べて、より非現実的(フィクショナル)で魅力的であるように思う。トリスおじさんや王蟲と倒錯的に戯れる現実の吉高由里子は、より軽やかでより重く、「蛇にピアス」や「僕等がいた」の、役にすっぽりと収まりきった非現実の吉高由里子に苦くも勝利を収めてしまっているのだ。
 だから今回「横道世之介」で、吉高由里子が初めて登場して間もなく、原宿のバーガー屋で何度も繰り返し見せる過剰な高笑いが、現実の非現実的な吉高由里子に限りなく似ていることにまず感動させられる。要請される演技から溢れだすそのプライベートな高笑いは、ふつうならば禁止されるはずなのだが、そこに現実の吉高由里子の天才が反映されているが故に、役を超えて、この映画での特権的な居住権を得てしまうのだ。お譲さま役を与えられ、「トリスおじさん」や「王蟲」にとって代わるような「ベルサイユのばら」と戯れることによって、役から離陸し、現実の吉高由里子に接近しながら飛翔するその軽やかさは、実に心地がいい。
 一方で、トリスおじさんや王蟲、オスカルらと戯れるその軽やかさの深淵にあるはずの絶望的な重さを、夜の浜辺での吉高由里子の表情は持っているし、また一方で、役からはみ出た80年代の吉高由里子を、役に大人しくおさまった現代の吉高由里子が、車の中から見つめる視線は、現実と役をいかに往復するべきかについての吉高由里子の困惑そのものであって、―綾野剛の立ち居振る舞いも素晴らしかったが―「横道世之介」は吉高由里子のドキュメンタリーだと言ってもいい。