「ライブテープ」 松江哲明

 「ライブテープ」は、2009年1月1日、吉祥寺、前野健太アコースティックギター1本で歌いながら、武蔵野八幡宮からサンロード、吉祥寺駅を通って、井の頭公園に至るまでの74分間がワンシーンワンカットで撮られた映画だ。ひとつの長編映画ワンシーンワンカットのみで撮るという、決して思い付き難いことなどはない上に、単にエネルギー溢れるだけのものに終わってしまいそうな発想を、実際に実行したこの映画は、しかし、決して単なるエネルギー溢れるだけの作品には終わってなどいない。
 初もうでのお参りを終えた長澤つぐみを追っていたカメラが、神社入口の外までつづく長い参詣者たちの列の傍らにたたずむ前野健太の姿を初めてとらえ、Youtubeのおふざけ動画かなにかだろうとしかきっと思っていない参詣者たちの、カメラと前野健太を一瞥する冷たい視線のなか、前野健太が「失楽園で抜いてた、18の夏〜」と「18の夏」を歌い出す瞬間。この緊張感、宙吊り状態は、きっと持続し続けることだろうと、この映画の勝利を確信する。しかしそれだけでは終わらない。ほとんど立ち止らずに一瞥して通り過ぎていくだけの匿名的な群衆のノイズの中で、まるで前野健太松江哲明らと予め共犯関係を結んでいたかとしか思えない人々との、事件―奇跡的な出逢いが何度も訪れるのだ。
 見られることなく見ることができるサングラスは、前野健太にとって、群衆の中で身を守る最大のシールドとなるはずで、それを松江哲明に「はずせ」と言われて躊躇いながらも思い切ってはずす姿は本当に感動的だし、その上、はずしたサングラスを偶然通りかかった少年にプレゼントし、少年の方もそれを素直に受け取るとき、「パーフェクト・ワールド」にも似た(双方)成長譚が出来上がってしまうのは奇跡だ。
 サンロードの脇を入った細い路地のオープンバーで、煙草を吸う店主が見守りながら、バーの椅子に腰かけて二胡を弾く男に奥からギターを弾きながらやって来る前野健太が出逢ってしまう瞬間の構図は、みごとに西部劇のようだし、決闘のはじまりを予感させながら、2人の演奏が「ロマンスカー」へと移行する美しさも素晴らしい。
 ラストの井の頭公園でのライブで、ほぼマジックアワーのなかで「東京の空」が歌われるときの、あの祖母と孫や、前野健太を一瞥して帰っていく自転車の青年は、僕らが自己を投射できる奇跡的な動きを見せてくれたし、いくつかの自動車、自転車、人は、ここぞとばかり通り過ぎ、また停止し、奇跡的な出逢いはほかにも何度も生じていた。
 「ライブテープ」での歌いっぷりにしろ、今年の元旦の108曲ライブにしろ、ライブでのMCの素晴らしい饒舌にしろ、止むことなく、そのストイックな活動、行動を続けている姿を見ていると、いったいどうしてあれらみごとな「諦念」の歌を歌いながらその「諦念」からは決して生まれようがないくらいのエネルギーを発せられるのだろうかと不思議に思う。まさにその倒錯性にこそ僕らは感動するわけだが、「部屋でジャッキー・チェンのビデオでも見ていたい」という歌詞を書く人間が、サングラスを外しながら、元旦の吉祥寺の街で一度の切断もなく74分の持続を保つことが、ほんとうにいったいどうしてできるのだろうか。
 そして「ライブテープ」がそういった疑問に与えてくれるひとつの解答は、家族や友人の死に対して、自分はまだ持続しているというそのこと自体がまさに、切断することなく持続しつづけるエネルギーとなっているということだろう。