渋谷、ル・シネマで濱口竜介『偶然と想像』。
教授室での瀬川(渋川清彦)と学生(森郁月)の会話(精確では無いが)。
教授「理由などなく、生きているだけで誰かから嫌われることもある」
学生「ではどうすればいいのですか?」
教授「わからない。自分を変えることはできない」
「ただ、自分の価値を、自分だけは、自分で抱きしめなければならない」
そして別れ際に、(「さようなら」ではなく)
学生「ありがとうございました」
ボリス・バルネットの『帽子箱を持った少女』のキスシーンが感動的なのは、
アンナ・ステンが自分で唇に付けた傷によって、キスが交わされることになるからだ。
古川琴音はアンナ・ステンのようである。
相手との距離を縮め、互いの領域は侵される。
2人は深く傷付き、あるいは古傷が開く。
しかし不意になにか本質的な言葉が発せられ、2人の間に、親密で、かけがえのない時間が訪れる。
この幸福で、奇跡的な瞬間こそが、いつも濱口映画には訪れる。
濱口映画の湿度が飽和点に達する瞬間、そして映画館を出た後の夜明けのような清々しさを体験するために、
何度映画館へ足を運んだことだろうか。
「ありがとう」という言葉は、このようなかけがえのない瞬間に発せられる言葉だ。
そして「清々しさ」とは、自分が別の人間に「変わった」からではなく、
誰かに「ありがとう」と発することができたからではないか。
教授「自分は変えられない」
森郁月「ありがとうございました」
河井青葉と占部房子「ありがとう」
「すべての偉大な映画は「さようなら」を言うための修行だ」というのはペドロ・コスタの言葉である。
しかし「さようなら」ではなく、「ありがとう」という言葉が発せられるとき、
そこには、「2人の時間はこれからも続いていくのだ」という確かな感触がある。
教授「自分の価値を抱きしめなければならない」
「自分の価値」とは、あるいは、自分が「これまで生きてきた時間」と言うことができるだろうか。
古川琴音の「2年」、森郁月の「5年」、占部房子と河井青葉の「20年」。
あるいはロメールの具体的な日付のように。
時間とは残酷なものであるが、「自分の時間は自分で抱きしめなければならない」。
誰かの「これまで生きてきた時間」が自分のそれと奇跡的に通底し、
かけがえのない、幸福な瞬間が訪れるのを待つために。それは即ち、演じることそのものでもあるだろう。
「映画撮影、演技とは一回一回サッカーを発明するようなもの」
『何食わぬ顔』の大学生
「頭の中でサッカーをしよう」