「乱れ雲」 成瀬巳喜男

神保町シアター成瀬巳喜男の「乱れ雲」を見た。古本まつりが開催されていたので、満席になるかと思いきや、ガラガラだった。
神保町シアターの常連たちは、この成瀬巳喜男の遺作、傑作中の傑作をきっと何十回と見ていて、別に今日見る必要もなかったのだろうか。僕は今日初めて見たのだが、これは何十回と言わず、何百回と見るべき映画だと思った。

日常とは関係がないと思っていた死は突如として訪れる。それは電話一本で不意に知らされるものであり、少し車を走らせればあらゆる場所にすぐ発見できてしまうものだ。「乱れ雲」は、死がすぐそこの日常にあるという事実を僕らに直視させる。登場人物たちの日常を覆いつくす死は、耐えられないくらいの強度を持つ。
映画とは、生きるとは、衣・食・住であり、司葉子の笑顔であり、加山雄三の笑顔だ、ということを成瀬巳喜男は証明する。不意に訪れた夫の死。自分が運転する車でひき殺してしまった男の死。女は、そして男は、その死を前にして、それでも服を着て、めしを食い、住む場所を確保して、生きていかなければならない。そして、とても受け入れられはしない死を背負いながらも、司葉子が、加山雄三が、ある瞬間わずかに見せる笑顔こそが、生きるということなのだろう。

死とか生について、考えたり話したりするのは、照れるし、なるべく考えないで生きていたいと思うのだが、「乱れ雲」はそれを許さず、死は日常にあるし、生きるとはそんなに甘くないという事実を突きつける。「乱れ雲」を見終わった後も、とてつもない強度の死を、「おみやげ」として手に持たされ、家まで持ち帰らされる。だから、シアターを出た後も皆沈黙し続けるしかない。トイレで、隣のおじいさんの乱れるホースからの荒尿が、僕のジーンズにかかっても、そんなことは全く気にならないくらいの沈黙。
乱れ雲」。最もすごいと思う映画のひとつだろう。