12月14日

神保町シアター小津安二郎「東京暮色」
夜、新宿武蔵野館山下敦弘もらとりあむタマ子」。

荻野洋一さんがツイッター前田敦子について、「風変わりな子役を見たときに出る「あの子いいね」という感想に近い。前作『クロユリ団地』も去年の『苦役列車』もそうだが、まだ子役なのだろう。」と語っていたが、見つめ、黙り、言葉ならざる言葉で思考し、ときに口から音を漏らすタマ子−敦子はなるほど「子ども」で、とりわけラストのアイスクリームを食べるシーンは「子役」としてすごい良かった。
ものを与えられた子供が険しい表情でそれを食べる。トウモロコシを、サトウキビを、小豆バーを、子どもたちが険しい表情で食べるのは恐らくそれが硬いからではない。子どもたちは決まってそのとき別の場所にいる。「今ここ」ではない別の場所にいる。

「少なくともそれは今ではない!!」

タマ子が、敦子が叫んでいたではないか。「今ここ」ではない別の場所、しかしそれは子どもたちにとって現実的に具体的な、連続した時間や場所ではない。
「私は誰か、私は誰か、私は誰か・・・」という呪文を、あるいは自分の名を、永い一日を終え布団に納まったときに、天井の一点のシミを見つめながら頭の中で連呼することで、幼年時代、少年時代あれほど容易に、短時間で到達できた無私の、灰白の境地。私が、それまでの、あるいはこれからの一切の私と手を切り、まったく関係のない誰かになり果て、透明になる瞬間。その断絶の、死の、切迫した険しさの瞬間。
タマ子―敦子は今ここにはいない。どこでもない別の場所にいる。危険な場所。そしてその瞬間もアイスクリームを口に運ぶ手は依然として動き、動き続けているのだ。
その瞬間こそが「もらとりあむ」だというのなら・・・「クロユリ団地」的・・・