「NINIFUNI」 真利子哲也

中学生の時、「私(オレ)には夢がある。いつかステージに立ちたい。そして歌いたい」と誰かが書いていた。しかし、そういった「夢」は普通は叶うものではないし、もう少し可能性のありそうな「理想」も、それに手が届いたと思った瞬間、新たな「理想」が生まれ、一生手が届かない。「アキレスと亀」のようなものだ。

夢を追いながら、朝起きて、ご飯を食べて、どこかへ出かけて、帰ってきて、ご飯を食べて、寝る。いつまで経ってもこの繰り返しで、夢に手は届かない。そうすると自分が、ただ生きているために生きているといったような、「∞」の環を歩き続ける「虫」のようなものに思えてくる。

此岸の「∞」の環からの脱出をはかり、彼岸にたどり着こうとして、皆「海」を目指してきた。フランソワ・トリュフォー「大人は判ってくれない」のドワネル少年(ジャン=ピエール・レオー)、北野武HANA-BI」のビートたけし、岸本加世子、大杉レン、それに黒沢清トウキョウソナタ」の小泉今日子・・・ しかし海は行き止まりで、此岸に留まり続けるか、そこで自殺するかで、皆ことごとく脱出に失敗してきた。僕が覚えている中で脱出に成功したのは「ハリー・ポッター」のハリー・ポッター少年(ダニエル・ラドクリフ)くらいだろうか。(トリュフォーの「アントワーヌとコレット」「夜霧の恋人たち」「家庭」「逃げ去る恋」のいわゆる「ドワネルもの」はドワネル少年のその後の此岸での人生をみせてくれるので大変勉強になる。)


「NINIFUNI」の男(宮崎将)は、国道沿いを彷徨い続ける。そこにはコンビニがあって、パチンコ屋があって、中古車販売店があって、小さな工場があるが、その土地を特色づけるものは何もない。どこにでもある、何もない風景。虫のような音を出して走る無数の車の騒音が常に聞こえる。男は、ゲームセンターでスロットゲームをしたり、シャワシャワになったマックフライポテトを食べたり、変な形をした木を見つめてみたりする。そして男は、枯れ草を踏んで虫みたいな音を出して歩き、コンビニで買ったカップラーメンを虫みたいな音を出してすする。

虫みたいに黙り続ける男は、海を目指す。しかし、海は行き止まりだった。打ち寄せる波が男を留まらせる。夢はなかった。男は車の中で七輪の炭に火をつける。

数日後、男のいる海岸で、ももいろクローバーがロケを行う。ももいろクローバーは夢のような自己紹介をする。「えくぼは恋の落とし穴」「みんなの妹」・・・(このとき玉井詩織さん(黄)が「海で釣りした〜い!!」と言ったのは見事だ)。そして夢のような音で、夢のように歌い、夢のように踊る。死んだ男の視線は、車内から、夢のようなももいろクローバーを見つめる。


ももいろクローバーを見つめる視線はまさに僕らのそれだ。
ヴィム・ヴェンダースは「東京画」(1985)でこんなことを言っていた。
「私は、彼(小津安二郎)の映画に世界中のすべての家族を見る。私の父を、母を、弟を、私自身を見る。映画の本質、映画の意味そのものに、これほど近い映画は後にも先にもないと思う。小津の映像は、20世紀の人間の真実を伝える。我々は、そこに、自分自身の姿を見、自分自身について多くのことを知る」

ドイツ人のヴェンダース小津安二郎の映画に彼の父を発見すると言うのだ。
映画に自分の父や、自分が映っているならば、それは自分の人生に関係ないはずがない。