4月16日 「歓待」の正面ショット– マイケル・マン『TOKYO VICE』

丸の内ピカデリーマイケル・マン『TOKYO VICE』(第一話)。

視線でできた映画。視線のクリスタル。

『東京画』への、『珈琲時光』への、小津への返答。

複数の視線によって、もしくはジェイクの声、ジェイクの文字によって?

「外国人の視点から見られた数奇な東京」というクリシェは、

日本人の視線と等価に、相対化されフィクションとなる。

試験官「これは日本語の試験ですよ」ージェイク「日本語わかります」

 

「見て生きる」とは、ヴェンダースが『東京画』で語った言葉だ。

東京。あらゆる視線は偶然性の中にあり、等価にある。

すれ違う匿名の人物を見るとき、その人物もまた何かを見ている。

バスに乗る小学生、すれ違うヤマンバギャル、名前のない通行人たち。

たとえば、ジェイクが居酒屋で参考書を見るとき、

女はジェイクを見ている。

新聞社の筆記試験でジェイクが周りの受験生を見るとき、

受験生もまたジェイクを見る。

人々は必ずなにかを見る。

視線は相対化され、ジェイクの視線は特権化されない。

そして視線の「極み」のようなもの、「極められた視線」として、

警察の、ヤクザの「眼光」があり、歌舞伎町で焼身自殺をはかる男の視線があり、

そこにおいて映画は歌となる。

そして、街を歩く匿名的な人物の視線にも、潜在的にそれらがあるだろう。

これが、この映画に賭けられたものだ。

 

たとえば『Dune』で、アトレイデス家が宇宙船から惑星に降り立つ際、

一家の人物たちの逆光のバックショットをヴィルヌーブの十八番だと言うならば、

蝟集する人物たちを正面から捉えたショットは、

マイケル・マンの十八番だと言いたくなる。

新聞社の筆記試験で、机に向かう受験生たちの正面からのショット。

試験開始前、受験生全員が前方を向いて静止し、無数の頭部が並ぶ。

(この筆記試験のシーンの途方もない多幸感はいったい何だろうか?)

そして予告映像にあった、機動車両に座り、どこかへ移動している渡辺謙と機動隊の、

正面からのショット。

サスペンスと笑いが、緊張と弛緩がある「歓待」の時間。「歓待」のショット。

時間そのものとなったショット。

人物たちの視線は等しくカメラにおさめられる。

麦秋』の記念撮影のようだ。

 

どうか2話以降も映画館でやってほしい!

 


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