白石晃士『貞子vs伽椰子』

昼、新宿、中川君に会う。
下北沢へ、「CITY COUNTRY CITY」でタコのジェノベーゼ食べる。
新宿、ピカデリーで黒沢清クリーピー』見る。
 後、バルト9で白石晃士『貞子vs伽椰子』見る。予告編を見る限りで、この映画のホラーとしての質、あるいはコメディとしての質に期待はしていなかった。「ホラー」あるいは「コメディ」は、それぞれ個々に適当に処理されることだろうと思っていた。ただ、玉城ティナ山本美月が見られるということで、土曜の夜に見る映画に選んだにすぎなかった。
 しかしながら、ここにはホラーとコメディ間のジャンルの往復があり、あるいはもっといえばジャンルの解体がある。これがたんなるホラーであったり、たんなるコメディであるはずがない。ただ恐怖して済まされたり、笑って済まされるものではない。もっとダイナミックな出会いの映画だ。この映画が良質なコメディであり得るのは、同時につねにこれがホラーであるからである。
 そして、ホラーとコメディの往復運動、あるいは、ホラーとコメディを、悲劇的なものと喜劇的なものを、2つを同時に共存させることを可能にしているのは、玉城ティナの表情・頭部の形であり、それ以上に山本美月にほかならない。
 映画が歌い出す瞬間というのは、映画が2つに引き裂かれ、同時に2つのものになるときである。この映画はまず明らかにホラーとして始まった。それがコメディにはっきりと移行しようとするのは、霊媒師の男と少女の2人組が登場してからであるが−−この俗世離れした2人組もまた、とくに盲目の杖をつく大人びた少女が、ATGの実験映画のようで素晴らしい−−この映画をたんなる消費的なゆるいコメディに墜落させることなく、コメディでありながら同時にホラーであるという、2つの存在に引き裂くのは山本美月である。
 『アオイホノオ』然り、UFOのCM然り、山本美月はいつだって暴力的なほどに誠実である。ここでも2人組の霊媒師と初めて遭遇したとき、山本美月はホラーを捨ててコメディのほうへ雪崩れ込むなどという下品な振る舞いは決して行わない。コメディが導入されることを彼女はよく心得ている。心得ているが、これが良質なコメディたり得るには、自分があくまでホラーを保ち続けねばならない、ということをそれ以上によく心得ている。まさにこの山本美月の暴力的な誠実さこそが、映画を2つに引き裂き、コメディであると同時にホラーとする。
山本美月が歌い、映画が歌い出す瞬間。あまりに美しい。今年のベストワンの一本。