ベイビー・アネットは瞬く間に有名になり、世界各国を縦断する。
歓声を上げ、熱狂する人々。
2日経って、あの空虚さは一体何だったろうかとふと思い出す。
ここにもやはり、
「私たちは何を見ているのか」あるいは「なぜ見ているのか」という問いがあり、
体の芯から凍えるような笑いと恐怖があり、映画館を出た後に続く疲労感と感動がある。
『アネット』を見ながら思い出していたのは、
『Sans Titre(無題)』のこと。大歓声の中、バレエを踊る女性のこと。
吉祥寺オデヲンでウェス・アンダーソン『フレンチ・ディスパッチ』。
窓や格子からこちらを覗き込む顔のカットがいい。
監房の2人の会話を覗き込むレア・セドゥ、
少年を覗き込む青い目のシアーシャ・ローナン・・・
新宿テアトルで片山慎三『さがす』。
冒頭、疾走する楓(伊東蒼)に並走するカメラは、
恐らく彼女とは反対車線を走り、かなり引いた画角で彼女を画面におさめているので、
通行人や車両が画面手前を横切る。
やがて楓は横断歩道を渡って、こちらのカメラに向かって走って来るのだが、
通行人たちはカメラを避けるようにして歩いて行く・・・
この映画が大阪・西成を舞台とし、
それだけでなく、実際に西成で撮影されたことがわかる。
職安では、画面手前で窓口に向かう伊東蒼に対して、画面奥では喧嘩が始まっている。
彼らがエキストラなのか、ほんとうにこの職安に来ていた人々なのか?あの猫は?
「指名手配犯」「首吊り死体」といった共通項を取り出すまでもなく、
これはもう『(秘)色情めす市場』である。
街角でのビラ配りのショット、
激昂する伊東蒼の近くまで寄り、彼女を見つめニヤける自転車のお爺さん。
複数の通行人たちがカメラを見る。
あるいは、今池駅での素晴らしいワンシーンワンショット。
果敢で、豊穣な画面が連鎖し、ただただ戦慄するほかない。
果敢であるというのは、70年代には無かった、
「あべのハルカス」を見上げたワンショットがこの映画に存在し、
現在の大阪そして西成、
映画の内と外を同一画面におさめようとしていることが明らかだからだ。
撮影中何度も絡まれ、「雑魚が」と言われたという。
『女優ナナ』のようである。
舞台挨拶で、『さよならくちびる』に出演した2人に惹かれ、
当て書きで脚本を書いたと塩田監督が話す。
新谷ゆずみは何かを見つめる時の強い眼差しに、
日髙麻鈴は目の奥になにがあるのか判らず、吸い込まれそうになる目。
アテネ・フランセの講義で、
「増村保造『曽根崎心中』の梶芽衣子は一体なにを見つめているのか?」ということに
ついて、塩田明彦は「死だ」と語っている。
そして、「映画が歌い出す瞬間」はそこにある、と。
夜、六本木、「楳図かずお大美術展」を見る。
101枚の絵(コマ)を順に読み進めて行く。
それぞれの絵には上にタイトル、下に物語やセリフが、
手書きのグニャグニャの文字で書かれている。
絵から次の絵へ、1歩跨ぐその一歩一歩の間にぶっ壊れた跳躍がある。
東京タワーからの跳躍。「ウ〜ン」。
その跳躍が、しばしば人物やロボット、虫たちがなにかを感じ考え受け取った結果の、
「選択」としてあることに笑い、泣くしかない。
それによって次の絵では世界の激変、あるいは暴力的なずれが引き起こされている。
絵から絵へ、我々は激しく揺さぶられ続ける。
『退化』の右下、病床に伏す老人の苦悶の表情が頭にこびりついている。
新宿TOHOで岸善幸『前科者』。
森田剛は『ヒメアノール』で唐突になにかの塊となってスクリーンに現れ、
わたしたちを戦慄させた。
ただ物体が画面の中にある。
ある時期に固まってしまった顔面、後頭部。
笑いや涙や何かの凄まじい感情の流動の最中に、灰に埋もれ、
生きたままミイラとなってしまった男。
顔面には、複数の深い皺が刻まれている。
あるいは、夜のうちに氷結してしまった渓流の滝・・・
顔面はもはやそれを使って何かを言い表すため、表情をつくるためのものではなく、
それ自体が画面の中のもうひとつの画面となる。
だからこそ、固まってしまった顔面には、あらゆるすべての表情が可能。
この映画の中では、森田剛だけが真実のようである。
有村架純「好きな食べものは?」
森田剛「ラーメン」
そして顔面は溶け、液体となる。
Bish幕張ライブ『THE NUDE』の映像演出を調べると、山田建人監督。
1992年東京生まれで、Suchmosや宇多田ヒカル『忘却 featuring KOHH』のMVなど
監督している。
好きな映画監督はデヴィッド・フィンチャーという。
アイナ・ジ・エンド『誰誰誰』のMV。
カメラは低い位置にあり、人物を見上げる。
黒い女たちは皆顔がある。
YoutubeでBishのライブ映像を見る。
顔面のクローズアップは頭部を切断されたサイズで撮られ、
ワイドスクリーンのようになる。
「手」だけを撮ることを指示された固定カメラがある。
不意に挿入されるバンドは、マッド・マックスのウォーボーイズの
楽器隊のようである。
そして、スイッチングの動体視力が凄く、
カットの終点は予期するよりも3~5フレーム早い!
人物が振り返るとき、どこでカットを終わらせるか。
特に「stereo future」のスイッチングはなにか特別な論理で行われている。
冒頭、上陸作戦へ向かう機内での隊員たちの会話はひたすら素晴らしく、
この映画の出発点を示している。
かつて会話とはこうであった。
想起するのは、たとえばルノワール『浜辺の女』での男女の会話。
男「ここで何を?」
女「薪を集めているの。悪い?」
男「やめた方がいい」
女「なぜ?」
男「その木は・・・」
女「幽霊が怖いならなぜ救命着を?」
男「幽霊って何のことです?」
女「幽霊が怖いんでしょ」
かつて、地域から寄せ集められたクラスメイトとの中学校時代の会話。
親戚の伯父との会話・・・。それらをふと思い出す。
かつて会話とは、このように荒唐無稽で暴力で、ときに愛があったと。
つまり、全く異なる文脈にいる者、別の世界を見る者どうしが、
当事者たちはそのすれ違いに気づくことなく、会話が進んでいくこと。
このとき個々の語りはモノローグのようになり、音声になり、歌になる。
ブラッドスポート「その槍は?」
ハーレイクイン「答えを探してる」
登場人物たちは出発点において、互いに平行関係にあり、交わることはない。
そのとき、各々が誰かに受け渡そうとし、誰かから受け渡されたものは、どこへ行くのか?
ナイトクラブへ向かうバスの中で語られる、ラットキャッチャーの父との記憶。
あるいは、ハーレイクインが死んだ男から託されるあの意味のわからない槍。そこに映画がある。
ハーレイクイン「これが答えだったのね」
やがて到来する、靴を履いて走り出すハーレイクインとともに並走する横移動のカメラは、
ただただ美しい。