長江英和の「たすけて・・・」はすごくよかった ― 「劇場版 SPEC〜天〜」 堤幸彦

 カルーセル麻紀にベビーシッターのちょっとした役を与えることで、ほどよい濃度を生産すること。それこそ「ケイゾク」において、渡部篤郎野口五郎長江英和、鈴木紗理菜や泉谷しげるらの饒舌を、寡黙な演出や配役と中和させることによって当前のように生み出されていた、ちょうど中谷美紀が本来的に持つような希薄さ、透明さであった。
 当然、「ケイゾク」の続編とされる「SPEC」にも、そういった希薄さ、透明さを求め続けた人々は決して少なくなかろう。そのうちの一人である僕も、ドラマ「SPEC」にそれを求め、いくらかそれを発見しつつ、「ケイゾク」とは打って変わって饒舌になったドラマ「SPEC」のその饒舌は饒舌として受け入れ、決して退屈することはなかったし、むしろテレビドラマとしては好んでもいた。たとえば、先日放送された「SPEC〜翔〜」の瞬間移動のスペックを持った、顔が黒く塗りつぶされた殺し屋なども、テレビドラマとしては良いと思った。
 が、「劇場版 SPEC〜天〜」は少々饒舌が過ぎるし、その語りは決して映画にとって巧みなものとも思えない。カルーセル麻紀のほどよい寡黙さには心地よさを感じるものの、加瀬亮や、神木隆之介や、伊藤淳史や、浅野ゆう子らの止むことがない饒舌に「どうしたものか」と頭を抱えさせられたりする。これがたとえば浅野ゆう子ではなく浅野温子であるだけで、その語りにもっと興味深く耳を傾けられたのではないだろうか。
 当麻(戸田恵梨香)と瀬文(加瀬亮)が屋上で銃を向け合い、2人の命が宙吊りになるとき、そして意識を取り戻した当麻が自分が瀬文を傷付けたと知り激しく取り乱すとき、これはひょっとすると長い迂回を経て「SPEC」もまた最後は「ケイゾク」最終回のあの思い出深い感動的なラストに接続されるのでは、と思ったりもして少々うるっとくるものの、向井理エヴァンゲリオンさながらに登場し、饒舌に語り出したりなどするときにはもう、そういった期待もすっかり忘れ去ってしまっている。

ケイゾク」のこのオープニングが大好きでよく口ずさんだものだ。