5月14日

朝、外から、中島みゆきの『ヘッドライト・テールライト』の

ピアノを練習する音が聞こえる。

風呂に入って朝食を食べて出かける。

高円寺「ドラマ」で閉店セールをやっていて、

会社で働き始めた頃に毎週金曜日の夜、「ドラマ」の2Fで、

アダルトDVDをレンタルして帰る週課があった。

5枚で¥1000なので、6枚目以降は1枚¥200だから、毎週6枚選んでレンタルした。

インターネットやホームページが発達したので、コンピューターがあって、

レンタルする必要がなくなった。

閉店セールで本が30%オフになっていて、柳美里の「交換日記」を買って帰る。

7月17日

イメージフォーラムバーバラ・ローデン『WANDA』。

なぜこれほどまでに金銭を手に入れたい、手に入れようとするのか。冷静に考えると、金銭で買いたいものなどこれと言って特にないはずなのだが。

金銭を手に入れようとすること、彷徨うこと。

つねにこのことが謎であり、ものすごく共感しながら見た。

7月15日 省略される時間 森井勇佑『こちらあみ子』

新宿武蔵野館で森井勇佑『こちらあみ子』。

前半、小学生時代は、『お引越し』の田畑智子のあの捉えどころのない「おめでとうございます!」をただひたすら見ているようだ。

あくまであみ子(大沢一菜)が主導権を握り、あみ子のフィクションによって形作られる映画。だからこれは、これまで見たことのない凄まじい映画になる。

そして、小学生時代から、中学生時代へ。

中学生のあみ子もまた、明らかにサイズのでかい制服を着た大沢一菜自身が演じる。笠智衆のように。

ここに、省略される時間、フレーム外の時間の残酷があり、この映画の重力となる。さらにそれが現実の中学校=暴力や実人生の時間の残酷にあまりに似ているので、戦慄するほかない。ものごとは気づいたときには絶望的に変化してしまっている。かつて親しかった人びと・周囲にいた人びとは、明確な別れの挨拶・場や決着を得ることなどなく、いつの間にかいなくなっている。その人びとのことを、時々思い出したり思い出せなかったりするだけである。

祖母の家での父親(井浦新)とあみ子が向かい合う素晴らしいカット。ヴェンダースが『東京画』で語る、「突然スクリーンに、何か本当のもの、何か現実のものを見ると、息をのみ、身震いしてしまう」という言葉のように、フレームの内と外が通底する。

7月10日

新宿TOHOでタイ・ウェスト『X』見る。

映画内ポルノ映画は、監督の思い通りにはならない。

ガソリンスタンドのシーンは、主演女優の助言(「ガソリンのノズルのアップから撮った方が、ペニスを挿入しているように見えるのでは?」)によって変更され、

また、監督の彼女である音声スタッフが「私も映画に出たい」と言い出し、プロットの変更を余儀なくされる。

並行して、この映画自体もまた、編集によって壊れそうになる。

何もない草原のロングショットが持続する時間。

部屋に侵入したお婆さんの主観カット、バカ殿のようだ。

カットに先行して、あるいは遅れて短く2度はさまれる、その次のカット、あるいはすでに終わったはずのカット。

初めて映画をつくるものが編集(発明)したようなつなぎ。

7月9日

netflix柯孟融『呪詛』、『ストレンジャー・シングス4』見る。

避難所の体育館で、ロビンが同級生と一緒にピーナッツバターサンドを作るシーンがいい。彼女の早口が素晴らしい。

シーズン2のスノーボールのシーンと同じく、何かが決定的に変わってしまった後の親密な時間。濱口竜介映画のような。

5月27日

新宿、Ksシネマで『MADE IN YAMATO』。

清原惟の短編『三月の光』、河川敷の2人のシーンが素晴らしい。

紫のジャンパーを着た女子高生、オレンジのパーカーを着た自転車の男子高校生。

クローネンバーグ『ザ・ブルード』の子供たちのようだ。

男子高校生は、河川によって水際にできた地形を渡ったりして戯れる。

男子高校生は女子高校生にそれを「見てくれ」と言う。

女子高生は土手に座って彼を見下ろし、眺める。

川に落ちないように土から土へと飛び移り、土の地形の上に男子高校生が立つとき、

「地図が作られている」という感覚がある。「概念が発明されている」。

このとき最小のものは最大のものになる。

 

4月30日

後輩と池袋「楽園」に行き、パチンコを教えてもらった。

パチンコ「ベルセルク無双」で、当たりは出ず。

赤色のテロップで、「夜が明けるまで死に続けろ」という言葉が出、

これはガッツの有名なセリフと知っていた。

家に帰ってYoutubeでアニメ版の「蝕」を見、

「夜が明けるまで死に続けろ」が一体どんな文脈で言われたのかを知りたくなり、

漫画を読み始める。

9巻まで読んだが、「夜が明けるまで死に続けろ」はまだ出てきていない。

 


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4月16日 「歓待」の正面ショット– マイケル・マン『TOKYO VICE』

丸の内ピカデリーマイケル・マン『TOKYO VICE』(第一話)。

視線でできた映画。視線のクリスタル。

『東京画』への、『珈琲時光』への、小津への返答。

複数の視線によって、もしくはジェイクの声、ジェイクの文字によって?

「外国人の視点から見られた数奇な東京」というクリシェは、

日本人の視線と等価に、相対化されフィクションとなる。

試験官「これは日本語の試験ですよ」ージェイク「日本語わかります」

 

「見て生きる」とは、ヴェンダースが『東京画』で語った言葉だ。

東京。あらゆる視線は偶然性の中にあり、等価にある。

すれ違う匿名の人物を見るとき、その人物もまた何かを見ている。

バスに乗る小学生、すれ違うヤマンバギャル、名前のない通行人たち。

たとえば、ジェイクが居酒屋で参考書を見るとき、

女はジェイクを見ている。

新聞社の筆記試験でジェイクが周りの受験生を見るとき、

受験生もまたジェイクを見る。

人々は必ずなにかを見る。

視線は相対化され、ジェイクの視線は特権化されない。

そして視線の「極み」のようなもの、「極められた視線」として、

警察の、ヤクザの「眼光」があり、歌舞伎町で焼身自殺をはかる男の視線があり、

そこにおいて映画は歌となる。

そして、街を歩く匿名的な人物の視線にも、潜在的にそれらがあるだろう。

これが、この映画に賭けられたものだ。

 

たとえば『Dune』で、アトレイデス家が宇宙船から惑星に降り立つ際、

一家の人物たちの逆光のバックショットをヴィルヌーブの十八番だと言うならば、

蝟集する人物たちを正面から捉えたショットは、

マイケル・マンの十八番だと言いたくなる。

新聞社の筆記試験で、机に向かう受験生たちの正面からのショット。

試験開始前、受験生全員が前方を向いて静止し、無数の頭部が並ぶ。

(この筆記試験のシーンの途方もない多幸感はいったい何だろうか?)

そして予告映像にあった、機動車両に座り、どこかへ移動している渡辺謙と機動隊の、

正面からのショット。

サスペンスと笑いが、緊張と弛緩がある「歓待」の時間。「歓待」のショット。

時間そのものとなったショット。

人物たちの視線は等しくカメラにおさめられる。

麦秋』の記念撮影のようだ。

 

どうか2話以降も映画館でやってほしい!

 


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